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中島さんに救われた新人時代

最近出た西和彦さん「反省記」やそれ以前の古川亨さんの本にも出てくる有名なエピソードが上記の中島さんの80年代のCADソフトCANDYの話だ。

そのころ大学の研究室には先生がポケットマネーで買ったPC-9801があった。美術教育系の研究室では極めて珍しかったけど、先生の大学院同窓で友人がCGアーティストのはしりの原田大三郎だったのでさもありなん。もっとも先生はフランス語論文のワープロ用途でしか使ってなかったので、ほぼ自分が自由に占有していた。

ある日愛読していた月刊アスキー誌の広告に日本最初のCADソフト、しかもGUIで動くものが載っていたのですぐにマウスセットを導入してもらった。そのころの98はもちろんキャラクター表示ベースのOSだったのだが、その上で動くソフトの中にはGUI風のものもあり、よくマウスとセットで売られていた。

ともあれ、なぜか美術教員養成課程の中でプロダクトデザインを勝手に専攻し、木工家具のデザインをしていた自分はずいぶん図面作製でお世話になった。疑似的に3Dワイヤーフレームのようなものも表示できたので、当時友人と作っていた8mm映画でも使ったりしていた。

そして運よく採用してもらったデザイン部門に配属されてハタと困った。コンピュータがないのである...。ここが君の席だよと案内された場所には立派なドラフターと製図セットが。そう、まだ業務の世界では手描き図面だったのだ。当然学生の時と違って難易度の高い3次曲面などもあって関数電卓を駆使しながら図面を引くんだけど、そもそも計算が苦手なので時間がかかる。間違って変な試作を発注してしまう。課長からは一から図面の勉強をしろと本を渡される。

そんな苦労をしてたころから半年後にワークステーションとCADが導入されることになり、もちろん真っ先に飛びついた。そして諸先輩たちが四苦八苦しているときにCANDYの経験があった自分はすぐに使うことができて救われたのである。

当時のCADルームはワークルームの中でも特別にワークステーション様のために空調が一定に保たれて快適。やがてそこに置かれたターミナルマシンからUUNETに入り、fjに書き込むようになり、インターネットの世界につながって行くのだった。

(たぶん続く)

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