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乳腺外科医事件 最高裁判決への疑問

乳腺外科医が準強制わいせつ罪に問われた事件で、2022(令和4)年2月18日、最高裁判所第二小法廷は、東京高裁の有罪判決を破棄・差し戻しました。
筆者の感じたいくつかの疑問を提示したいと思います。

本文中の記述は、主に最高裁の判決文をベースとしています。

事案・判決の概要

最高裁判決の冒頭で、事案概要がまとめられております。
以下のリンクで読めます。

本件の起訴事実は、2016(平成28)年、乳腺外科医である被告人が、患者女性の右乳腺腫瘍摘出手術をした後、病室ベッドで横たわっていた患者の左乳首を舐める行為をした、というものです。
弁護側は、わいせつ行為を全面否定しました。患者女性は、麻酔薬を使用した手術による「せん妄」に伴う幻覚を体験した可能性が高い。患者の左胸から検出された被告人のDNAは、診察や会話の飛沫で付着した可能性がある、と主張しました。

第1審・東京地方裁判所は、多数の証人を呼んで審理し、無罪としました。

一方、控訴審・東京高等裁判所は、第1審を破棄し、有罪としました。
控訴審で出廷した井原裕医師の証言によれば、患者女性が「せん妄」で幻覚を体験したとは考えにくい。科捜研のDNA定量検査によれば、被告人のDNAが多量検出されており、左乳首を舐めたことでしか説明できない。
というのものでした。

しかし、最高裁は、控訴審には「審理不尽」の違法がある、として破棄し、審理を東京高裁に差し戻しました。以下は要約です。

控訴審判決が前提とした井原医師の証言は、医学的に一般なものではないことが相当程度うかがわれる。
また、患者の胸に付いた被告人DNAの定量検査について検討すると、
㋐ 定量検査は、別の検査の準備行為であり、使用する試料の量も厳密ではない。この誤差がどこまで結果の信頼性に影響するのか、不明である。
㋑ 定量検査は、リアルタイムPCRという手法である。この手法では「標準試料」と、実際に検査しようとする試料をそれぞれ増幅し、標準試料をいわば「物差し」として、検査対象の試料のDNA濃度を測定する。しかし、今回の検査では、標準試料は増幅されていない。別の機会に増幅したときの結果をそのまま使った。これは「リアルタイム」PCRの原理からしておかしいとの指摘がある。
DNA定量検査の信頼性について、第1審では明確な結論が出なかったのに、控訴審は審理を尽くさず、有罪判決をした。審理不尽の違法がある。

疑問① なぜ無罪とせず、差し戻したか?

最高裁の結論は、東京高裁判決の破棄、差戻しでした。
高裁の有罪判決を取り消し、審理のやり直しを命じたのです。
しかし、もともと本件第1審の東京地裁の判決は、無罪でした。

日本の刑事裁判は、第1審を重視する制度になっています。
控訴審は第1審の判断を事後的に検証するもので、新たな証拠調べをするのは例外である、という建前がとられています(当否は措いて)。
裁判員裁判の導入によってその傾向が強くなり、最高裁も、チョコレート缶事件判決(最判平成24年2月13日刑集66巻4号482頁)を始めとして、第1審重視の姿勢を押し出していました。
ですから、乳腺外科医事件でも「原判決を破棄する。本件控訴を棄却する」(=1審の無罪判決確定)との判決が予測されていました。

ところが、今回の最高裁判決は、高裁判決を破棄したものの、審理を打ち切ろうとはしませんでした。
この点が、実務家を中心として、波紋を広げているのです。

思い起こすと、袴田事件における2020年(令和2年)12月22日最高裁決定(集刑328号67頁)の結論も同じでした。
https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=89920
最高裁第三小法廷は、袴田巖氏の再審請求を否定した東京高裁決定を取り消したものの、ただちに再審開始を認めるのではなく、東京高裁での審理継続を命じました(裁判官5名中3名の多数意見)。
これに対し、林景一、宇賀克也裁判官は、ただちに再審開始すべきだという反対意見を述べたのでした。

乳腺外科医事件の弁護人が、分かりやすく今回の問題点を書いています。

疑問② なぜ「せん妄」の井原医師証言を取り上げたのか

最高裁が東京高裁判決を破棄した直接の理由は、あくまでDNA定量検査に関する「審理不尽」にあります。
そうすると「せん妄」による幻覚体験の有無(A論点)に関する井原証言に言及する必要はなかったとの疑問も生じます。
高裁判決は、判決文の構造を読む限り、井原証言に強く依拠してはおらず、患者女性の胸に付着した被告人DNAの量(B論点)を最も強い根拠にしていると筆者は捉えていました。

一方、最高裁判決によれば、高裁は、訴訟関係者に対し、関心事項として「せん妄」の論点(A論点)を挙げていたようです。
つまり、有罪判決の中で特に重みを持った事項(B論点)と関心を持って審理した事項(A論点)に乖離があったのです。
こういう不意打ち判決は、筆者も経験したことがあります。
審理不尽つまり手続に違法があったという最高裁の判断は、納得です。

ただ、裁判手続に違法があれば、そこを中心に書けば良いはずです。
そうでなく、井原証言は医学的に一般的な見解ではないとわざわざ言及したあたり、最高裁には別の意図もあったことになります。
少なくとも、本件の状況においてせん妄による幻覚体験が生じていた科学的可能性自体は否定できない、と認めたように思います。

疑問③ DNA鑑定の詳細な議論と地裁判決の指摘の無視

最高裁判決は、STR型検査によるDNA鑑定(定量検査)について、リアルタイムPCRの仕組みも含めて、詳しく取り上げています(8頁~10頁)。
正確を期すため、多少文量を割く必要はあったでしょう。
それでも意外性は感じました。「最高裁がここまで科学的議論に付き合うんだ」という感想です。
DNA鑑定が争われている事件は他にもある中、最高裁がその信用性に判断を示すことはほとんどありません。今回、最高裁が、DNA定量検査それも標準試料の取扱いの論点を詳しく取り上げたのは、意外に思われたのです。

第1審判決(東京地判平成31年2月20日判時2426号105頁)によれば、DNA定量検査が有罪立証に使われるケースは少ないようなので、それが背景にあったかもしれません。
他方、一部の実務家から「最高裁は、検察に、差戻し控訴審での有罪ストーリーを教えたかったのでは?」との批判も上がっています。

1審の東京地裁判決(大川隆男裁判長)は、科捜研の行ったDNA定量検査の信用性に関して、検査を実施した職員の誠実性等を問題視しました。
同判決が指摘したのは、
(1)標準資料の増幅曲線や検量図の消去を阻止しなかったこと
(2)定量検査が重要と分かった後にDNAの抽出液を廃棄したこと
(3)検査結果のワークシートは手書き、誤記は消しゴムで消去していたこと
でした。
東京地裁判決は、疑わしきは罰せずであるから、検査者の誠実性に疑念がある以上、それだけでも無罪の言い渡しは考えられる、と書いていました。
ところが、最高裁は、

(なお,本件アミラーゼ鑑定において検査開始の1時間後に陽性反応が得られ,また,本件定量検査において測定された数値が1.612ng/µlであったと認定した原判断は,相当である。)

とわざわざ書きました。
1審判決が指摘した問題点のうち、(3)は問題無しとしたように見えます。
最高裁が、高裁判決を破棄した理由は、(1)の関連問題なので、今後この問題を検察側がクリアーしたら、被告人が有罪となる可能性があるのです。

筆者個人として、最高裁は、最終的な有罪無罪については中立と見ます。
乳腺外科医事件の控訴審判決(特にせん妄の判断)は、多くの医療関係者から批判され、刑事司法への不信感を生みました。そのことは最高裁も念頭にあったと思われます。
一方、性犯罪の無罪判決に対して批判デモが展開されたことも記憶に新しく、その後、複数の判決が高裁で覆されたことは、周知のとおりです。
中途半端にも思える今回の最高裁判決は、政治的に「板挟み」となった最高裁のエクスキューズにも見えます。

このような疑問を払拭するためにも、最高裁には、今後、事件の政治的影響力の大小を問わず、科学的議論に真っ向から向き合うことを期待します。
そして、検察官上訴に対して、もっと厳しい目を向けるべきです。
袴田事件最高裁決定で、林・宇賀裁判官が言ったとおりだと思うのです。

補論:事実取調べの要否に関する判例との関係

疑問①について、少し議論を補足します。
法律の専門的な議論になります。

最高裁は、控訴審が第1審判決を事実誤認で破棄・自判する場合、事実取調べをしなければ、刑事訴訟法400条但書に違反するとします(定式1)。
これは昔からの判例であり、昨年の最高裁判決(最判令和3年9月7日、同年(あ)第1号)でも確認されています。
https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=90562

一方、昨年の別の最高裁決定(最決令和3年5月12日刑集75巻6号583頁)は、控訴審の事実取調べで被告人が黙秘した結果、新たな証拠が得られなかったとしても、控訴審が第1審判決を破棄して有罪判決をしても良いとします(定式2)。
https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=90293
定式1と定式2は、形式的には矛盾しませんが、「事実取調べ」を要する根拠を実質的に捉えると矛盾するため、両者は緊張関係にあります。

ところで、乳腺外科医事件の控訴審では、せん妄の有無(論点A)については事実取調べが行われたものの、DNA定量検査の信用性(論点B)については事実取調べが行われてなかったようです。
控訴審の東京高裁判決は、確かに論点Aについても第1審の判断を変えていますが、それだけが有罪の根拠になったのではありません。
事実取調べをしなかった論点Bに対する判断も、第1審と大きく変えて、積極的に有罪の根拠にしました。物的証拠として、結論へのインパクトはこちらの方が大きいと考えられます。

そうすると、乳腺外科医事件の東京高裁判決は、論点Bに関する事実取調べをせずに原判決を破棄し、有罪の自判をした点において、上記定式1に反したと考えることが可能です。
他方、定式1を形式的に把握する立場では、「結論に直接影響する論点ではなかったとしても、事実取調べは実施したのだから、控訴審が第1審を破棄することは問題ない。」という結論になるでしょう。

乳腺外科医事件では定式1と定式2の対立図式が明確にあらわれたわけではなく、今回の最高裁判決でも審理不尽として処理されました。
そのため「控訴審の破棄自判と事実取調べの要否」が明示的に論じられたものではありませんが、応用問題として位置付けることができそうです。
議論の深化を待ちたいと思います。

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