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17年と90分間の戦友

 初戦のベルギー戦。本来ならば敵うわけのない相手から、2ゴールを奪って引き分けるというサッカー日本代表の戦いぶりに、わたしは奮い立ちました。

 2002年当時の日本代表は、開催国でありながら完全なるチャレンジャーで、胸を借りるというのもおこがましく感じるくらいの立場でした。しかし、強豪から引き分けを”勝ち取った”のです。日本中が沸くのも当然でした。

 わたしは、一人暮らしの部屋で応援する孤独に耐えられなくなってしまいました。誰かと感情を共有したかったのです。そこで友人に連絡すると、彼も同じ気持ちでした。ロシア戦は友人とパブリックビューイングに出向いて観戦することにしました。

 当時24歳の自分は「行きさえすればなんとかなるさ」という軽率さをまだ備えていたので、なにも持たないまま国立競技場に向かい、ゲートの前で立ち尽くすことになってしまいました。なんと、チケットがなければ入場できないというのです。

 どこがパブリックなんだと友人と毒づきながら、しかし、このまま試合を見逃すわけにはいかないので、わたしたちは観戦が可能な場所を探すことにしました。

 あらゆるスポーツバーは満席。居酒屋はもちろん、割烹らしき店にまで「サッカー観戦できます」と張り紙は出ています。しかし、どこも満席で入れません。道端にリアカー式のラーメン屋台が出ていました。その屋台の10インチくらいのテレビにまで人だかりができています。もはや三丁目の夕日の世界です。


 歩きに歩いて、住所が表参道に変わったあたりで、あるお洒落なカフェにたどり着きました。そこも店内が満席なのは変わらないのですが、しかし粋な計らいで、増設したモニターを、屋外に向けて設置してくれていました。そのカフェでドリンクをテイクアウトしさえすれば、路上で観戦して構わないというスタイルです。

 これ以上ない好条件に小躍りしたわたしと友人は、気がついたらビールを買っていました。銘柄は覚えていませんが、350mlくらいの小瓶です。湿気のせいで、冷えたその瓶の表面には、すぐに水滴ができました。


 いつの間にか、試合開始のホイッスルは鳴っていました。

 みるみるうちに観戦者が増え、30人くらいになったころでしょうか。同年代と思われるふたりの女性が、わたしたちのすぐ隣で観戦を始めました。ふたりともとても素敵な雰囲気だったので、中田が絶好のシュートチャンスを外しても、悪態はほどほどに、紳士的に振る舞おうと努力したのを覚えています。

 いつしかそこに、もうひとり男性が加わっていました。おそらく40歳前後でしょうか。わたしより頭一つぶん背が高く、スラリとした印象です。そして、海を越えて日本にやってきた人のようでした。そんな彼は、一緒になって日本代表を応援していました。

 テンションが高いと、普段は話せない英語もできるようになるのか、なんとか会話が成立しました。彼は近くのイラク大使館に勤めている職員で、つまりイラク人でした。イラクといえばドーハの悲劇の対戦相手ですし、よく最終予選に立ちふさがる強敵ですので、複雑な気持ちにならないわけではありませんでした。しかし、川口がナイスセーブでピンチを凌ぐたび、一緒に喜んでくれる彼の姿を見て、次第に親しくなっていきました。不思議なもので、言葉がわからなくても、彼の持っている知性や優しさを感じることができました。

 わたしは心のなかで「イラク大使館のおっちゃん」と、彼を呼んでいました。


 後半5分に稲本のシュートがゴールネットを揺らすと、呼応するようにカフェ全体が揺れました。いや、きっと日本全体が揺れたはずです。モニターの前は狂乱状態になり、誰の肩を抱いているのか分からなくなりました。そんなことはどうでもいいくらい喜びに満ち溢れていたのです。VIP席で小泉総理がメガホンを叩きながらはしゃいでいる姿が、モニターに映し出されていました。

 その後もチャンスよりもピンチの方がはるかに多い試合を、イラク大使館のおっちゃんや、ふたりの美女や、その場に居合わせた名も知らぬ同志たちと感情を共有するのは本当に楽しかった。ベスチャツニフがサイドネットを揺らしたり、柳沢のシュートがキーパーの頭上を越えたりするたびに、全員が声帯を震わせ、感覚はひとつになりました。


 結局、稲本のゴールが決勝点となってこの試合を日本が制しました。W杯おける初勝利であり、4つ目の勝ち点を積み上げたことで、次の試合に期待を残す最高の結果でした。カフェの路上で、人々は肩を組んでは体を揺らし、ビールは泡となって宙を舞います。若者のひとりが全裸になって人波にダイブして、炭酸まみれになったりしました。

 勝利を祝う気持ちも大きいのですが、薄氷を踏むような緊張から解放された安堵感の方が大きかった気がします。もうロシア代表は攻めてこない、それだけで酒が美味くなりました。

 やがて、イラク大使館のおっちゃんが帰るそぶりを見せました。自分は拙い英語で、応援してくれてありがとうと言いました。戦友と別れるようで寂しくなって、それまで首に下げていた、日本代表の青いオフィシャルタオルを彼に手渡しました。「これはあなたへプレゼントするので次のチュニジア戦も日本を応援して欲しい」と一生懸命、表現したつもりです。

 カタコトでも伝わったのだと思います。彼はそれを受け取って感謝してくれました。握手をしたのかハグをしたのかは覚えていないのですが、少しだけ蒸し暑さの残る夜の、素晴らしい思い出になりました。


 翌2003年3月、ブッシュ政権はイラクを攻撃しました。9.11に端を発するアフガニスタン戦争に勝ち、その勢いを借りてサダム・フセイン政権打倒を目論んだのです。国連の同意を得ない軍事行動に、賛同する国はわずかでした。その空気を打ち払うためでしょう。小泉総理はすばやく米国の支持を表明しました。イラク戦争の開戦です。

 あの夜から一年も経たないうちに、わたしとおっちゃんは敵同士になってしまったのです。試合じゃなくて戦争です。対戦国ではなく敵国です。彼の祖国に対する空襲が始まりました。万が一、彼が大使館での仕事を終えて帰国していたら。どうしてもそれを考えてしまいます。

 日本代表を応援してくれた、あのおっちゃんの国を攻撃するために、横須賀から、三沢から、嘉手納から、米軍はイラクへと向かっていきます。

 世界最強の軍隊が動けばひとたまりもありません。一ヶ月ほどでイラク全土は占領されました。ブッシュは知性の足りない顔で、大規模戦闘終結宣言というよく分からない声明を出しました。もちろん、おっちゃんの安否がわかるはずもありません。

 2002年のW杯は、とにかく思い出が詰まっています。あの時代に24歳という若者でいられたことは幸運だったと思います。同じように当時若者だった人たちの心には、興奮とともに、良い思い出が刻まれているのでしょう。

 しかし、わたしにとっては、ベッカムのソフトモヒカンよりも、ロナウドの斬新な髪型よりも、ゴールにもたれるカーンの美しさよりも、イルハンの甘いマスクよりも、前方宙返りで喜びを表現するクローゼの純粋さよりも、あの、背の高いイラク大使館のおっちゃんのことが、印象深く刻まれているのです。


#教養のエチュード賞 へ応募するために、noteデビュー直後に投稿した荒削りだった作品を、納得いくように書き直し、再投稿しました。

電子書籍の表紙制作費などに充てさせていただきます(・∀・)