生きる 息をする

かなり体に不調を来している今日この頃である。なんとなく身体中が痛くて、いつも何かに責められているような心持ちだ。心が焼けている感覚。

でもこれはなぜこうなっているのだろう。なにかがきっとずれてきてしまっているのだ。

僕には、安心や自信が欲しいという気持ちがあるみたいだ。そしてそのために、色々なことを成し遂げようとしたがる。何かを成し遂げればきっとこの不安や自己嫌悪がなくなると考えて一時的に気を張るが、その度に体は少しずつ無理をして壊れていってしまっている。

なぜだろう、と考える。そして落ち着こうとした時、僕はゆっくりと息をした。ああ、これだと思った。息を吐くという動作の中に、安心や、自信の芽生えのようなものを確かに感じられる。

気づかないうちにいつもしていること、その内の一つに、呼吸すること、がある。息を吸って、吐くという緊張と緩和の動作の中に、僕の生きていくための力がそなわっている。

仕事をした後で、風呂に入り息をつく。また音楽だって、不安定な音による緊張の後に、解決という緩和がやってきて、その一連の流れが感動を生む。そしてさらには、今こうしてnoteを書いていることだって、読書をすることで生まれた頭の中の緊張を、書くことで出してあげるという、一つの排泄であり、呼吸なんだと思う。

数学や物理や哲学だって、なにかわからないことがあるという、緊張した状態から、パッとわかり視界がひらける、そんな調和の感覚、一種の呼吸の快感が根底にあるはずだ。数学書にも哲学書にもそれは書いてはいないが、そんな感覚があってこそ数学者も科学者も哲学者も、研究することをやめられないのではないのか。この調和、という感覚と呼吸、ということの関係についてもまたどこかで考えてみたいと思う。これはおそらくとても深いところで繋がっている気がする。

生きる、いきる 息、いき。生きることは、息をすることだ、と「原初生命体としての人間」の中で野口三千三は言っていた。そしてこの言葉に、これを読んだ当時以上に実感を持っている。

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