トラウマと、私の中の小さな他者たち

最近「トラウマによる解離からの回復」という本を読んでいる。

なぜ気になったかといえば、外の人からは「悟っていて」親切そうにみられていても、近親者からは不躾で、横暴だと思われていたりする、といった内容や、頭痛、激しい眠気、ガチガチになって上がった右肩、人と親密になりすぎることを拒絶する、人を理想化して失望する、人の表情を常に窺ってしまう、などといった傾向が、自分の傾向や、今悩んでいる症状にとても似ていると思ったからである。こういったことに悩んでいるひとは結構いるのだろうか。もしいれば、ぜひ読んでみていただきたい。僕自身としては幼い時から父親に良く理不尽なことで殴られたことや、母親との関係性などが関連しているのではないかと感じている。ひどい状況にあった人が後にもさらに苦しまなければならないというのは理不尽なことなので、こういったことに関する知識が普及し、より平等な社会になることを望みたい。

この本では、こういったことはトラウマ的な体験によって、自分の心がパーツに分かれ、解離することによって危険な状況に対応してきた結果起こる症状の典型的なものとしている。

従来の考え方では、トラウマ的な体験の後に、ある状況下で特定の激しい反応をしてしまったり、極度に無気力になったりするようなことは、何か心が不調をきたしてしまったためで、それを思い出すことで反省し、正常に戻さなければいけない、といったような考え方だったらしい。しかし、本書では、そういった反応は当時にすれば限界まで迫られて体が本能的にとった対応で、適切なものですらありうると言う。そしてその時に形成されたある心のパーツの癖のようなものが、後のそれが必要ではない状況でも出てしまうようになっているという考え方である。なので過去の反応は過去の反応として置いておいて、今もそれが起こってしまっていると言うことを客観的に捉え、そのパーツたちを癒してあげようとすることで解決を目指す。

この方法は現在の症状を改善することを目的としているので、必ずしもトラウマ的な体験を追体験する必要はない。どうしてそういった反応が起こるのかを客観的に把握することが重要なのである。苦しむことを繰り返すことで治るということはほとんど望めないと言うことはよく分かる話である。

僕は人と話す時、いつも相手が快適に話せるようにしなきゃ、と力んで頑張ってしまうし、その結果ある程度それができるようにもなってきてしまった気がする。できるようになってきたのは良いけど。サービス精神のようなものが無意識に働いてしまって、人としゃべった後はぐったりしてしまうし、大勢で喋るとなるととても対応が難しく感じてしまう。怒っていたり、怒鳴っていたりする人がいたら、自分のことでなくてもドキドキしてとても疲れてしまう。

しかしこれも、少しのことでイライラする親がいたために、危険を避けるため常に人の反応を伺ったり、機嫌をよくしようとしてしまうパーツが形成されたからだと考えることができるだろう。そして、今もそれをしてしまっているが、実際には僕が普段話している人で父親のようにすぐに僕を殴ったり蹴ったり、怒鳴ったりするような人はいないと考えて良いと思うし、もしいたら警察かなんかに言えばいいだけだ。ただ耐えしのばなきゃいけないと言うことはない。もちろん小さい時に形成されたパーツの反応も、当時としては仕方がなかったわけで、今では他の対応策も取れるようになったと言う話である。だからといってそのパーツを消そうとするのではなく、そのことを小さなパーツたちに伝え、安心させることで関係を築き、反応を起こす必要のない状態にする。

僕は、この考え方はより納得ができるし、より今の生活の中で前に進もうとすることができるやり方だと感じている。今は現実の世界に生きているというような気があまりしなく、地に足がつかないような精神状態でいつも不安に暮らしているけれども、この考え方を身につけることで、少しでも地に足をつけて生きていくことができるような予感がするのである。

この考え方が、自分というものが複数の小さな他者によってできていると感じるという僕の持論と関係するのではないか、と言う話はまたいつか。


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