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【往復書簡】人間の成長が一番のエンタメ。

壇珠さんの記事へのお返事です。

壇珠さん、おはようございます!!ニュースなどでご存知だとは思いますが、静岡県熱海市で土砂災害が起きました。私の家がある場所が土石流の軌道上にあり、まだ安否確認ができていない状態です。私自身は東京にいたので、ボディは無傷です。しかしながら、ハートはばっちり傷ついております。自分の家が流されてしまったかもしれないと言う不安というよりは、凄惨な映像に心を痛めてしまったと言った方が正確だと思います。東日本大震災の時もそうでしたが、凄惨な映像が心に傷痕を残すことがあると思います。だから、今は必要以上にネガティブな情報には触れないでいたいと思います。

しかしながら、ばっちり傷つくと同時に「まったく傷ついていない部分」があることも感じます。これはきっと強がりではないと思うのですが、心の一部は「こんなもん、全然へっちゃらだよ」と言っているのです。今から3年前、私は、ハワイ島にみんなで使える家を作りたいと突然閃き、友達二人を引き連れてハワイ島に家を探しに行ったことがあります。とは言いましても何のアテも経済的な基盤も皆無だったために、奇跡が起こることを祈りながら出会う人々に話しかけ続けると言う日々を過ごしました。みんなからは無謀だと笑われたのですが、奇跡的な展開により、ハワイ島のプーナと言う地域にある土地を「自由に使ってもいい」と言ってくださる方と出会ったのです。これには驚きました。友達二人と「すごいね、すごいね!」と抱擁したくなるような感じて喜びを分かち合ったのですが、土地を手に入れた二週間後、キラウェア火山が爆発的な噴火をして土地ごと流されてしまいました。

うまい表現が見つからないのですが、私は、家(土地)が流されることに対する免疫があります。免疫があると言う表現はアホですが、免疫があるのです。家を失うということにも、若干、免疫があります。私は、過去に自分の所有物の一切合切を捨てられた経験があります。当時付き合っていた彼女の逆鱗に触れてしまい、服も、パンツも、大事な手紙も、卒業アルバムも、何もかもを捨てられてしまったのです。あれは結構な衝撃でした。靴下やパンツなどをもう一度全部買い直さなければならないと言うのは結構な負担で、だったらもういっそのこと死んだ方が楽だ(自分にはもう一度生き直す気力はない)と正直思いました。その経験があるからなのかなんなのか、もう一度あれをすればいいだけだと思っている節があります。またゼロになるだけだ。よし、OK。強く、逞しく生きよう。命があれば何度だってやり直せる。これまでがどうにかなってきたように、これからもきっとどうにかなるから大丈夫。そんな感じで、過去の苦労に励まされている感覚があります。

短期的に見れば不幸な出来事も、長期的に見れば「あれが転機だった」とか「あれのおかげで今の自分がある」と思える出来事が、今回の人生にはたくさんあります。何かに被災をされた方々の気持ちに、今なら少しは寄り添うことができるようになったのかな、などと感じています。色々な方々から「大丈夫でしたか!?」とご連絡をいただくのですが、大丈夫ですかと聞かれても「大丈夫です!」(あるいは「大丈夫じゃないです!」)としか答えることができません。そんな時に、黙って横にいてくれる人がいたら、実はね、みたいな感じで自分の思いを話しはじめることができます。具体的なヘルプは何もしないでも、黙って一緒にいる、同じ空間を共にする、共に存在する、共に生きるということが与える力は、相当なものがあると思います。壇珠さんとの往復書簡は、今、まさにそんなパワーを与えてくれています。静かな湖面に自分の姿を映し出している(確認している)のだと思います。

今日わたしは自分で作って『秘行』と名付けた、意識を使って遊ぶワークショップコースの開催日だったため、受講者さんたちと銀河鉄道で宇宙の旅をしてきたような、ロングジャーニー後の壮大な気持ちを味わったあとでこれを書いています。これまで何度か開催してきて、今日改めて思ったのは、「みんなすごい」「人間は超面白い」ということでした。わたしたちはこれでもかというほど、自分の思い込みを捉えたり手放したり、違う角度から見て笑ったり、客観視して面白がったりできる生物なのですね。人の柔軟さ、切り替えの潔さ、無限の可能性に目覚める姿はとても感動的でいつも涙が出ます。自分が何年もかかって辿り着いたところに、参加者さんが一瞬で立つ姿が最高にかっこよくて嬉しかったです。俺たちすごいですね。ひとり残らずすごいので、すごくないと思っている人はなにか大切なことをスコーンと思いっきり見落としているにすぎないのだと思います。

最高です!!!!!俺たち、絶対、すごいです。すごくないと思っている時でさえ、俺たちは絶対にすごいです。俺だけすごいんじゃないんです。俺たちがすごいんです。人間なら全員すごいです。生命体なら全員すごいです。

私は、最近、個性について考えていました。個性という言葉は「みんなにはなくて自分にだけあるもの」として語られることが多いですが、そんな個性は不要なんじゃないか、そんな個性は出せば出すほど孤立を深めるだけなんじゃないのか、などと思います。みんなにはない部分を伸ばすことよりも、みんなの中にある部分を発見する力を伸ばすことの方が、ずっと大事だと思うのです。優秀になりたいとか、突き抜けたいとか、特別な存在になりたいとか、そう思えばそう思うほど、私たちは苦しくなる生き物だと思います。社会は、私たちに、何者かになることを24時間要求します。何者かにならなければお前には価値がない。何者かにならなければ誰もお前のことなんて見ない。何者かにならなければお前には生きている値打ちがない。そういった暗黙のメッセージを、私たちに擦り込み続けているように見受けられます。でも、そんなことって、絶対にないのだと思います。何者かになれないことが苦しいのではなく、何者かになろうとすることが苦しいのだと思います。

善意の仮面を被った脅迫のメッセージは、この世界にたくさんあると思います。収入があった方がいいよ、収入がないと大変だよ、資格があった方がいいよ、資格がないと大変だよ、結婚をした方がいいよ、結婚をしていないと大変だよ、貯蓄があった方がいいよ、貯蓄がないと大変だよ、など、表面的には「あなたのためを思って言っている」思いやりの言葉ではあると思うのですが、その裏側には「いまのお前のままでは通用しない」という、不足を煽る脅迫的なメッセージが含まれていると思います。私は、極端ですが、こういった不足を煽るメッセージは全部無視をした方がいいと思っています。そうでなければ、恐れをベースにした人生になります。そして、一緒にいる人々に恐れを植え込む人間になります。なにかを真っ当に恐れることは動物としてとても大事な感覚だとは思いますが、恐れるべきことを恐れるためには、恐れるべきではないことを恐れない『意思』が大事になると思います。

意思とは、自分が自分にどのような人生を望むかということだと思います。みんなが欲しがるものを欲しがることではなく、自分が欲しいと思うものを明確にすることだと思います。意思の裏側にあるものは、こうなりたくないという恐れではなく、こうなりたいと思う希望(のぞみ)だと思います。自分の体と、自分の心(のぞみ)が一致した時、人間は魅力的にならざるを得ない存在だと思います。秘行に参加された方々がどんどん輝いていくのは、自分の体が自分の心と一致をしたからなのかな、などと勝手に想像します。自分の本当の思いを知った時、人は、輝かずにはいられない存在だと思います。そこに条件はありません。俺たち、絶対、輝ける生き物だと思います。

人はすぐに自分のビビリの方を優先してしまいますが、わたしたちはそれを選んでも嬉しいと思えないようにできているのだと思います。自分を邪魔する人は自分しかいないので、そういうときは「クララ、歩けるようになるだなんて考えんじゃねえぞ。考えるから転ぶんだし、転んで痛い目見るのは自分だろ。だから一生車椅子で暮らしてろよ。わかったな」と言っているのは自分なのだと思ったほうがいいと思います。その自分は、自分をなんとかして庇ってあげたいし、なんとかして守ってあげたいだけなのだと思うのですが、わたしたちはもしも自分が歩いてみたかったら、その養護に背を向けて「ごめんなハイジ。心配はありがてぇが、俺歩いてみるわ。ダメだったら笑ってくれていいからよ」と言っちゃうクララにならなくちゃいけないのだと思います!!

最高です!!!!!とりわけ自分を邪魔する人は自分しかいないという言葉に電撃が走りました。マジっす。これはマジっす。本気と書いてマジっす。俺の邪魔をする人間は俺しかいねぇっす。逆に言えば、俺の邪魔をできる人間は(俺以外)いないってことっす。自由っす。究極の自由っす。究極の自由の大海を、俺という不自由なボディを抱きながら懸命に生きる健気な俺っす。

俺たちは、自分に同情をしようと思えばどこまでも同情できる生き物だと思います。かわいそうな自分。みじめな自分。ふがいない自分。ダサい自分。かっこ悪い自分。自信のない自分。勇気のない自分。そういう自分を探せば、いくらでもわんさか出てきます。人間は不完全な生き物だから。でも、自分に同情をしている時間というのは、端的に『退屈』です。いつまでそれをやっているつもりなんだいお嬢ちゃんと、自分に発破をかけたくなります。誤解を恐れずに書くと、自分に自信がないってず〜っと言っている人は、自信がないと思っている自分に飽きているはずです。実は、自分が一番自分に退屈しているということを、とっくの昔から知っている人なのだと思います。だから、自信がないという人と出会ったら「そんなことはないよ。あなたは素敵な存在だよ。あなたは愛されているよ」などと優しく接するよりも、いっそのこと「お前の愚痴は聞き飽きた。弱い振りをし続けるお前の醜態は、もう、見飽きた。お前はお前に退屈しているだけだ。これから一緒に出かけよう。いまのお前をぶち壊しに行こう」と言った方がいいのだと思います。大事に扱うより、破壊する方向で扱った方がいいのだと思います。

ぶっ転ぶことや傷つくことを完全に避けて生きようとすると、その生き方自体がすでに自分を傷つけるものとなるように思います。だから、そうやって安全圏にいる人は、実はその「つまらなさ」でずっと自分を傷つけている。それならば、なにかにエントリーしてしまうほうがきっと人生は楽しくなります。勝負に出ようと思う心は、勝つか負けるかのどちらかを味わうことを許可することだと思います。その、うやむやにしないで白黒つけてみいたという心に従って動くことを、わたしはカッコいいと思います!!

完全同意どえす!!生きるのがつらいって、実は「つまらない」だけなのだと思います。仕事がつらいとか、お金がないからつらいとか、家が流されてつらいとか、ダミーです。楽しめないからつらいのです。笑えないからつらいのです。逆に言えば、面白ければ金がなくても幸せです。笑えていたら、家が流されても幸せです。幸せとは心の状態なのだと思います。無論、愛する人と死別をした時など、悲しむべき時にはしっかりと悲しんだ方がいいこともあります。しっかりと悲しむことで、心の中にその人を大事に保管しておくスペースが生まれます。だから、全部を笑い飛ばす必要は皆無です。笑ってはいけないこともこの世の中にはあります。ただ、ただ、ただ、現実の9割は笑えます。笑いに変えられます。生きる力に変えることができます。

女性誌を見ると「愛され女子になるために」などと書かれていますが、これでは全然足りません。愛されるだけじゃ足りません。愛されているだけじゃ退屈です。冒険が足りない。挑戦が足りない。喧嘩が足りない。達成感が足りない。ガッツポーズが足りない。さきほど「不足感を煽る情報は完全スルーをするべきだ」と言ったばかりですが、私は現代人の精神の渇きを煽ります。ヘイヘイヘイ、お前が本当に欲しいものは、お金というよりは刺激なんだろう。安心安全を求めている一方で、実は、本当はもっと激しく生きたいと渇望をしているんだろう、傷つきたくないとか言っているけれど、実はめちゃめちゃ傷ついてみたいとか思っているんだろう、だったらさあ、行こうぜ、地獄の底まで一緒に行こうぜ、みたいな感じでけしかけたくてたまらなくなる『クソガキ』が、自分の中にいることを感じます。天使のような、悪魔の笑顔の俺がいます(近藤真彦『ミッドナイト・シャッフル』参照)!!

圭吾さんは、ドラゴンクエストで遊んだことはありますか。ドラクエの世界には毒の沼地がありますが、わたしたちの世界にもこの毒の沼地があるものだとわたしは思っています。それはどこにあるのかというと、「諦めたところ」「無理だと決めつけたところ」「痛い目に遭わずに済む安全圏だと思ったところ」が、そのまま毒の沼地なのだと思うのです。

そこにいると、安全だし安心だし嫌な思いをしないはずなのに、ずっと体力が奪われていきます。外は敵だらけだし、草原も森も、ましてやダンジョンなんて絶対に危ないから入っていってはならない。ここにいれば安全なはず、と思ってとどまるところというのは、どこだって毒の沼地になります。その毒がどこからやってくるのかと言うと、その「世界を危ないところだと思う考え」からやってくるのだと思います。自分の人生を、そんなに危ない認定、疑わしい認定しているから、不安だしつまらないのだと思います。毒の沼地から出ないでいる人には、「だったらお死になさい」と言うしかないのだとわたしも思います。いやぁしかし「ごめんなさいだけど死ね」に笑いました。こういうことを書く人は本当に稀なので、圭吾さんをとても貴重な人だと思い、友人であることを誇りに思います。「死になさい」と俺も一緒に言います!!ありがとうございます!!

素晴らしい比喩・・・!!毒ってます!!私は頻繁に毒っています!!頻繁に毒の沼地にはまっていますが、私の唯一の取り柄である切り替え力を遺憾なく発揮して、毎回すんでのところで抜け出しています。そして「あっぶね〜!!」と騒いでいます。もう少しで死ぬところだったぜ、ふう、と、ホッと一息つき続けている人生です。ありがとうございます。言葉の力は偉大ですね。目には見えない毒の沼地が、言語化されることによって可視化されます。可視化されると、避けることができます。抜け出すことができます。

いきなり極論を言いますが、死なないためには破滅が必要なのだと思います。破滅の香りがある道を選ばないと、心が死に絶えてしまうのです。これは私の病理なのかもしれませんが、安心安全な道を選ぶと、自分の中の野生が死にます。安定が保証されるほど、心が不安定になるのです。これって、多分、晴れの日もあれば雨の日があることが自然であるということなのだと思います。私は晴れの日が大好きですが、自然をコントロールして雨の日を一切排除しようとすると、大地が枯れます。結果、人間も死にます。雨の日は、絶対に必要なのです。感情も同じです。ポジティブな感情だけを歓迎して、ネガティブな感情を打ち消そうとすると、自然の反乱(氾濫)を喰らいます。どっちかじゃない。どっちもなんです。どっちも俺には必要なんです。幸福のために、不幸に飛び込む。極端ですが、これが俺には必要なんです。

あたしゃ、女を測っちゃいけないと思います。自分の価値を、愛されるに値するかどうかとつなげて考えちゃいけないと思います。男に愛されるかどうかで女の価値を測っちゃいけないと思います。今ももう時間がなくて、圭吾さんに短いお返事を投げてしまうのが申し訳ない自分がいるのですが、これをここで投げることもまた男子への甘えだと思って、公開で自分を許してみたいと思います。めっちゃ短い返信ですが、思いを込めて送ります!!いつも甘えをぶちまける場所を作ってくれてありがとうございます!!わたしゃ圭吾さんとキャッチボールができて幸せです!!このまま投げます、フォームもめちゃくちゃですが、それでもあなたに向かって!!とりゃああああああ!!

よおっしゃああああああああ!!受け取りました!!壇珠さんからは毎回カルピスの原液を投げつけてもらっている感覚です!!薄める水は各自で調達します!!読者の皆様も、それぞれお好みの濃度に薄めて飲んでいることと思います!!女を測っちゃいかんのす。女は花っす。女を測りたくねえっす。女を測るなんて冒涜っす。逆に男はどんどん測ってくれと思います。俺は俺の命に胸を張ります。自分の外側に張り付いたもの、金とか家とか名誉とかは一夜にして流れ去ることがあります。しかし、土石流でさえ絶対に奪えないものがあると思います。あたしゃ、そこに胸を張ります。俺は俺の存在に胸を張り続けます。やるときゃやる男です。生きるときゃ生きる男です。これまで何度も奇跡を起こしてきました。これからも奇跡を起こす生き物です。

人間の成長が一番のエンタメなのだと、最近とみに思います。天空の城ラピュタに「40秒で支度しな」という有名なセリフが出てきますが、人生にもこれと似たところがあります。運命を分ける40秒があります。タラタラしていると置いていかれます。ちょっと考えさせてくださいとか言っている間に、奇跡は私たちを通り過ぎます。逆に言えば、40秒で支度を済ませ、まったく違う世界に踏み出すところから、物語は大きく展開するのだと思います。土石流もひとつの強制断捨離とみなし、より一層身軽になって「40秒と言わず、4秒で来ました」と逆にドーラの寝首を搔く程度には、ふてぶてしい存在でありたいと思います!!今日もありがとうございます!!人間の成長が一番のエンタメ!!自分の成長(変化)を自分に見せつけてやりたいと思います!!俺たちサーファー!!いい波、キテます・・・!!!!!!!!!!

バッチ来い人類!うおおおおお〜!