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自分自身を生きるということ

何かをしたり、決めたりするとき、
その真ん中にわたしがいるか。

っていうことを考えてる。


何かをしたり、決めたりするとき、
理由があるよね。

それが主体的であるかどうか。


人って、体のいい、もっともらしい理由を
作り上げることができてしまう。
自分自身も本当に騙されちゃう。


理由が言い訳のとき、小さくても違和感があるはずで。
でもあまりに小さいので、「気のせい」にしちゃう。

「なんとなく」は、大事だと思うんだよね。
なんとなく、のその奥に、本当の理由が、ある。

それは、きっと、主体的=魂が求めるもの。
だから、どんな理由でもいい。


魂が求めることであれば、どんな理由でも、
例え誰かに何か言われても、
どうでもいい。

自分の魂に添ってるから。

誰かに何か言われて「もやっ」とするとき、
その「もやっ」が魂の違和感のサイン。


この理由じゃダメだ、ってジャッジしてるのは、自分なんだよね。
だから、「いい感じ」の理由を作る(苦笑)


魂に添っていない「いい感じ」の理由のときは
ご自身の中に小さな違和感が生まれてるから、
その違和感が伝わってくる。

主体的で魂に添っていなければならない、
っていうことじゃなくてね。
All OKだから、ご自身の心のままでいい。

ただ、主体的で魂に添っていなければ、
そこにたどり着くまでは苦しいかもしれない。

その苦しささえも、実は求めてるものなんだけどね。

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夫がお土産に買ってきてくれた、あじさいかりんとう。

この形、どうやって作るんだろう~?!
またまたわたしの知りたがり発動♥
想像と違った作り方にビックリしたのでした。

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