ホモ・デウスを読んで

サピエンス全史に続く、イスラエルの歴史学者ハラリ氏の傑作。前作同様、彼の知見の広さや教養の深さが滲み出る一作となっている。今まで歴史学者と聞くと(言い方は悪いけれど)ただの歴史オタクというイメージが先行してしまい、その研究を元に人類の時間・空間を超えた予測や分析をしている人がいるなどとは思わなかったので、サピエンス全史を読み始めてからすぐに衝撃を受けた。ハラリ氏的にはおそらくホモ・デウスに主張を込めていて、その主張の裏付け・誘導としてサピエンス全史を記したような気もする。もちろん、サピエンス全史を単独で読んでもかなり楽しめるし勉強にはなるけれど、ホモ・デウスこそが、従来の歴史家の域を超えた彼の真骨頂ともいうべき作品であるように思えた。

さて、どんな内容だったのか、読んだ僕自身も完全に自分の中にスッと入ってきたわけではない。結構難しい部分もあった。でも、それらがとても論理的、俯瞰的にかつ丁寧に書かれていて、読者としては読んでいてかなり納得感がある。すごくざっくりいってしまうと、ホモ・デウスでは、人間至上主義の台頭と生物学を始めとするサイエンスの進展、AIなどのテクノロジーの進歩の現在と、そこから生まれる将来の人間の姿がかなりショッキングな形で描かれている。これまでの人類をグレードアップしたホモ(人類)・デウス(神)の登場である。これは、我々全員に起こることではなく、一部のエリート層に限られると筆者は考えていて、これによってエリート層と無用者階級の二極化が進むこと、そしてそのような社会ではもはや自由主義や人間至上主義が意味をなさないことなどが描かれている。

しかし、ハラリ氏の議論はこれで終わりではない。他の将来像として、データ至上主義の台頭を予測しているのだ。データ至上主義は、すべてのものをインターネットでつなぎ、自由に情報をやりとりすることこそが大切だという「教義」を持つ。これは、まさに現在進行中の世界の動きから容易に予想できる動きではあるものの、データ至上主義の先にある未来は決して明るくないことを筆者は強調している。というのも、人類を含む生物はアルゴリズムに過ぎず、仮に我々が生物よりも優秀なアルゴリズムを作った暁には、我々の持つ意識や我々の経験それ自体には本質的に価値がなくなってしまうからである。ここで、人間至上主義は根本から崩れることになる。

このような衝撃的な予測を立てる一方、筆者がもう1つ強調していることがある。それは、予測は予測に過ぎず、予測の存在によって、逆に未来の方向が変わることも大いにありうるということだ。そして、この本の意味というのはまさにそこにあって、ただ「近い将来おそらくこうなりますよ」という将来像を読者に提示しているのではなく、このような将来像を描けることを示した上で、我々に重要な問いを残してくれているのだ。それは、①生物は本当にアルゴリズムに過ぎないのか。②知能と意識はどちらにより価値があるのか。③アルゴリズムが我々以上に我々のことを知るようになった時、社会や政治や日常生活はどう変わるのか。の3点である。

ここからは僕自身の考えになるが、この本に書かれている将来像は、多少大げさ、あるいは現実味のないことももしかしたらあるのかもしれないけれども、かなり的を得た将来像になっているように思う。人間はどうしても過去と同じように未来が来るものだと無意識で思い込んでしまい、これから来る人類や地球全体の大きな変化を現実のものとして認識できていない部分があるように思う。ましてや、いろんな分野が加速度的に進行していっている中で、将来を具体的かつ正確に描ける人など存在しないからなおさらだ。最近どこにいってもAIとかゲノム編集といったワードが耳に入って来るようになった。それで、「将来的にはこんなこともできる」という趣旨のことをいろんな研究者がいろんな立場からいっている。例えば、デザイナーベイビーやイーロンマスクのニューラリンクなどだ。おそらく今後も、こういった「技術的に可能になるだろう」ということがどんどん出て来るように思う。重要なのは、そういったものに対して我々がどう対応していくべきかということである。いろんなテクノロジーの進歩にSFの世界に入ったかのような近未来感を感じて胸躍る気持ちも確かにあるけれど、ただただそういったものを受け入れているだけになっていると、気づいたら我々の意識や感情や経験がないがしろにされていることにもなりかねない。今まで私たちの信じてきた人間至上主義や自由主義が崩れていき、全てがインターネットで繋がり、身体も徐々に自由に「グレードアップ」できるようになった時、果たして私たちは今よりも幸せで満足していられるだろうか。わからないけれど、そうした人類の全体に関わる大きな波を前にして、やはり必要なのは、(まさに自由主義や人間至上主義の考え方だが)、「我々が何を望むか」ということのように思える。結局、サイエンスやテクノロジーは手段であって、方向性を示してくれるものではない。データよりも感情や意識を大事にしたいのであれば、やはり「何を望むか」を大事にしていかなければいけない。技術的に「できる」ことの中から、本当に「やる」ことを選び取っていくのが、まさに我々の役割であると思う。


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