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#3 せっぱつまれば「めんどくさい」はなくなる。のか?

めんどくさいの哲学 #3

 息子二人がそういう状態(就職も就職活動もせずうちにいる状態)だと人に話すと、ほぼ100%、「甘やかし過ぎだ」と言われます。「飯を食わせているから、危機感が生まれない。家から放り出せば、めんどくさいとか言っていられず、何かはじめるだろう」というわけです。しごくごもっとも。きっとその通りだと思います。でも、それで問題は解決するのでしょうか? せっぱつまったとき、めんどくさいはなくなるのでしょうか?

 ひるがえって自分を考えると、大学が終了になって、金を稼がなきゃならないとは考えました。就職先を見つけなきゃとも考えました。でも、じゃあどういう職につくかは、あまり吟味しなかった気がします。そのころぼくは、文章を書く仕事をしたいと考えていました。その理由は、いつかは小説家になりたいと思っていたからです。今ふりかえると、これ自体、ほぼ何も考えていないに等しいと思います。だってそれまで、小説なんてほとんど書いたこともなかったし、今から思えば、読むのもそれほど読んでなかった。読書量はまあ、当時(1980年代)の大学生の平均よりちょっと下くらいなんじゃないかな。調べたわけじゃないけど。ではなんで小説家になりたいと思っていたかというと、理由はかんたん。父親が小説家だったからです。父親を見ていて、小説家って寝る時間は不規則で、好きな時に起きればいいし、あんまり人に気を使わなくていいし、自分のペースで暮らしていけるのがいいと思ったわけです。

 もう一つは、当時よく読んでいた小説家が、かなり悠々自適な暮らしをしているように見えたから。朝のうちに集中して仕事して、お昼は自分でパスタを茹で、散歩して中古レコードを探して、夕方はどこかのバーの口開けでちょっとウィスキー飲んで、夜はクラシック聴きながらお酒をもう少しってな感じの日々を送っているというようなエッセイを読んで、そんな暮らしができるなら、こりゃ小説家だな、と思ったわけです。しかし、自分に小説がかけるか、とかはまったく気にしてなかった。というより、「やればできるんじゃない? いまはできないけど」と思っていました。

 そんなわけで、文章を書く仕事をしながら、そのうち小説でも書いてみようと思い、新聞の求人欄で「旅行雑誌ライター」というのに応募しました。旅行ができて、文章を書いて、それで飯が食えるんなら楽しそうじゃん? と思ったので、まあ、やはり深くは考えていなかったのですね。
 思うのですが、あの時、小説家になりたいから文章を書く仕事につくと考えたのは、めんどくさかったからではないでしょうか? 自分に小説が書けるのか? とか、小説を書くにはどうしたらいいのだろうか? といった、小説家になるための重要な具体的な部分を考えるのが面倒だから、えいや!と新聞広告に出ていた、それっぽい仕事に飛びついて応募した。

 またその会社が、ちょっとへんなところがある面白そうなやつなら誰でも採用! って体質の会社で、ぼくは初めての就活で職を見つけてしまい、いちおう何かの文章とかも持っていったものだから、この会社はぼくに物書きの才能の片鱗をみつけたので採用したのだなと、いいように取っていたと思います。

 これははたして、いいことだったのだろうか? 結局、めんどくさいから、それっぽい職についたってだけなのではないだろうか? いやいや、希望の仕事に近しい職について、頃合いを見計って小説家になれるかもしれないし、それはそれでいいんじゃない? と思うかもしれません。けれどぼくは、結局、小説なんてろくすぽ書きもせず、記事を作ったり広告を作ったりする会社に勤めてそこそこ稼ぎ、30年近く小説家にならなかった。これ、どこか間違っていたのではないでしょうか?


 つまりぼくが言いたいのは、危機感があって、せっぱつまって何か行動を起こそうと考えても、べつにめんどくさいがなくなるわけではない、ってことです。何か一歩踏み出しているのだから、一見いいように思うけど、本質的なめんどくさいには目をつぶる。そんなことがあるということです。
 息子たちを放り出すことによってせっぱつまらせても、よく考えることをめんどくさがっていたら適当な仕事を選んでしまうかもしれません。それは、ひとつのめんどくさいを別のめんどくさいに移行しているだけ。それではだめなような気がするのです。そこを、もっと考えていきたいのです。


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