杉山大樹_180619_0039

怪我で消えた戻らない時間+遅ればせ自己紹介

年が明けて、一般病棟に移ったのが6日。事故から25日が経っていました。

ようやく、オムツ生活から解放されて、尿の管も取れて、看護師さんの付き添いでトイレに行けるようになりました。
もう24歳なのに!
 まさか毎日なされるがまま、オムツを交換され、綺麗に拭き取ってもらって、また排泄して、なんてことが起こるとは。

これは流石に辛くて恥ずかしかったので、脱却できて嬉しかった。
尿の管が長らくついていたので、普段の排尿の感覚が思い出せなくて、最初は違和感が凄かった…(長らく頻尿気味でした)


自分が長い間寝ていたことにはっきりと気づいたのも、自分が何者で何をしてきた人間だったかはっきりしたのも、一般病棟に移ったころです。

遅ればせながら、ちょっと自己紹介をさせてください。
24歳厄年、杉山大樹と言います。

フリーランスです。
東大を2年間休学し、「ファシリテーション」と「編集」の2つの仕事を、いくつかの会社でやってきました。

愛知出身で、高校では演劇部に命を懸けていました。

東大では、入学早々漫才サークル「笑論法」を立ち上げて漫才したり、
留学やフォーラムなどで海外を飛び回ったり、
高齢者の家の空き部屋に学生を住ませる「ひとつ屋根の下プロジェクト」の学生リーダーをしたり、
シェアハウスで人を呼んでご飯を作ったり(すぎ山食堂、何度かテレビにも出してもらいました)
好き放題楽しみました。

その後、就活が上手くいかず凹んでいたところ、
高校生に大学生が進路の授業を作って運営する「一般社団法人Fora」
東大の新しいオンラインメディア「UmeeT」
どちらも同時期に、立ち上げメンバーとして誘われました。

僕がやりたいこと、価値を発揮できることを、彼らは別々になんとなく気づいていたみたいです。「伝わらないことを、エンターテイメントとして、楽しく伝わるように」

自分で食っていこうと、とりあえず休学し、それが「ファシリテーション」と「編集」の2つの仕事の軸になりました。

ファシリテーションは、主に一般社団法人Foraでの、「学問ファシリテーター育成講座」のディレクターとして継続。

編集は、UmeeT編集長を引退してからも、
京大の新メディア「360˚(サンロクマル)」立ち上げの仕事(写真の鳥は京大クジャク同好会のクジャクです)
NHKのオリンピック若者向け広報サイトの編集を委託いただいていました。「ワガモノ2020」の編集を委託いただいていました。

「伝わらないことを、エンターテイメントとして、楽しく伝わるように」
フリーランスとして、気ままに、でも能力をもっと磨いて、面白く生きていきたい。それは今も変わりません。
未来のお客さんのために、自作で使ってきた資料を貼らせてください。

時空を戻して今年1月6日。

もちろん何の仕事も出来ません。ひらがな勉強中。数字壊滅的。切開で声が出ません。
前回更新はこちらから。

事故からの25日、やりたかったこと、やらなきゃいけなかったことがいくらでもありました。

Foraの第3期ファシリ講座は、後半を僕なしでなんとかしてくれた。気づいた時には終わっていた。
心血を注ぎ、やり遂げようとしていたNHKのオリンピックサイトの仕事は、オープン直前に何もできなくなり、お任せせざるをえなかった。

鹿児島の長島町に、小中学生の勉強を教えにいく最後の合宿に行けなかった。あのめっちゃ美味しいブリを食べられなかった。ついでに熊本旅行もしようと思ったのに。
年末いつも通り実家に帰ることも、大晦日に家族で安くなった刺身と肉をスーパー回って買いまくることも、両方の祖父母の家にお正月一泊ずつ泊まりにいくこともできなかった。
忘年会も新年会も行けなかった。
仕事に限らず、いくつもの約束を守れなかった。

怪我の理由は、自転車運転の悪癖だろう。覚えてないから分からないし後悔もできない。多分自分が悪いけれど、ここまでしなくても改めたのに!!
それとも、これまでしてきた他の悪いことがまとまって来たの? そんなに悪いことしたっけ…

お酒も飲めないから気を失ったことがない。だからこの長すぎる空白が解釈できない。

やりたかったのにできなかった全てに加えて、いつになったらやりたいことができるように戻れるんだろう。そもそも完全に回復できる日は来るのだろうか。それがまた怖い。

なかったことにならないだろうか。あの日にタイムリープできないだろうか。
これまで人生何度も後悔したけど、ありふれた叶わない願いだけど、でも。

そして当然、朝起きると病床なのだ。

浅い眠りで、悪夢ばかり見ていた。
(このころの夢は全く思い出せないので、夢と現実を漂流していた年末年始とリアリティが全然違う。あの時は本当にあの世界で生きていたんです)

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意識不明の間は、親が僕のスマホで片っ端から連絡してくれていたのは助かりました。
突然父親からラインが来たり通話が来たりして、しかも怪我で入院していることを突然伝えられて、受け手もびっくりだったようですが。

僕はようやく、両親がいてくれるときだけは自分のスマホを触って、でも慣れてるはずの操作方法が全然分からなくて、そもそも50音の配列が全然思い出せなくて、右手は自由には動かないままで、何も打てず終いでした。

Facebookで、「迷惑かけてごめん。生きてる。きっと大丈夫だ」と伝えたかった。でも打てない。

しょうがないので、面会時間中に両親に、代筆してくれと何度も頼みました。
でもLINEしか使わない2人は、「Facebookって世界の誰にでも公開されるんじゃないか」と思って警戒したそうです。申し訳ないがあなたたちの息子は有名人ではないんだ…


あんまり僕が何度も頼むので、1月7日に代筆のこの投稿がされました。

普段くだけた文体で投稿しているだけに、読んだ人は、「どうやらタダゴトではない…」「本当に杉山か??」と思ったそうです。

投稿はしてみたものの、そのころ僕はスマホをあまり見たくありませんでした。
返信を考えるのも打つのも遅すぎる。その自分を意識するのがガッカリで。世界の速度についていけなくて。


続きます。
次回は少し戻って、救急搬送された時の容態、目を覚まさない僕に両親がしてくれていたことを書きます。
いくつもの写真がどうして残っているか、お答えできます。

ぜひまた読んでください!


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