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あの地震と別れから9年経った。

9年前の今日の自分は、人に花を買う事をした事がなかったし、想像も出来なかった。
しかし彼女との最後の会話が関空の近くのホテルからの電話だった事、最後に直接会ったのは2月4日に踊りを見に来てくれた事になるとも想像できなかった。最後にあった日は会話もほとんどしないままで。
9年前の今日の自分はそれらが絶対そうはならないように祈っていたし、そんな事になるなんて思いもしなかった。

ニュージーランドで地震が起きた事をあの日は毎朝デスクで確認するニュースで見ていて知っていたはずなのに"なんかでかい地震が海外であったみたいだな"、"最近地震多いな"と普段と変わりなく過ごしてしまった午前中だった。
その日はそんな感じで午後も仕事していて、20時過ぎに知らない外人からかかってきたSkypeの電話で彼女が地震に巻き込まれたことを知った。そしてそれが別れの知らせになった。
いや、それは正確ではない。それから行方不明だったので安否は絶望的でも分からない、信じていたし直接別れをしていないし、実質的な知らせは遺体が見つかったという時でそして初めて墓前立った時、自分で決めた時だと思う。

あの時から随分長い間、2011年2月22日という日に起きたクライストチャーチの地震で失った一人の友人について考えた。あれから仕事を辞め、旅をした。毎日違う街や景色を見ながら初めての身近な人間の死の体験に命や人生を考えていた。そして毎年この日にもまた考えてる。

旅先は酷くどうしようも無い無力さに押しつぶされそうだった事、まさか自分にこんな苦しみが、落ち着きを取り戻せない程苦しい悲しみに襲われるなんて。それから抜け出して今こうやって生きている事、そしてそれから出会う人達やその土地での思い出に新しく進んでる実感もあった。
そして毎年2月になりこの日が近づくとあの時を必ず思い出す。

最後の会話の時に
「真太郎さん今まで色んな事教えてくれたよね、ありがとうございました。」
「そんなもう二度と会わないみたいな事言うわけないし帰って来たらまた遊ぶやんか。」
「あっそうだよね、成長して帰って来るから宜しくです!」
その時の電話はほんとそれだけで思い出すとこういう何か不思議な事ってあるものなのか、という会話だった。

それから3週間後の3/11に多くの人が大切な人を失った。悲しみに暮れた。
邦人の多くがCTVビルの瓦礫の犠牲になった事、ニュージーランドの地震の事はもう記憶もしていない。

あれから9年経って彼女は28歳になった。時は止まっても成長するんだな。でもまだ若いじゃんか。こっちはもうおっさんだよ。
毎年彼女の誕生日を思い出すと、返事のないメッセージを送る。そこに去年のメッセージがある。

あの時の自分から成長したんだろうか、何も残っていないよな、と振り返る2月。でも彼女にお礼を言いたいのは、花を人に贈る事を教えてくれた事。お祝いに花を贈れば、部屋に花があれば人生に喜びを彩る。自分も貰っても嬉しい。
8年前に初めて人に花を買った時は照れくさいもんだった。何を買えばいいかどんな花があるかもわからない。「誕生日とか贈り物ですか?」と聴いてくれた店員さんになんと言っていいかわかんない感じでお任せしたものだ。
確か3/11の数日後、多分3/14だったと思う。救助隊から発見されたと聴いた。そこで一つ認められなかった死を受け止めた。幸い体は綺麗だったと後にご両親から教えて頂いた。遺影しか顔を合わせることはなかったが、いまあの時もし。ニコニコの笑顔のままのイメージで残っている。
その数日後に丘の高台にある墓地に花を添えると、天国から喜んでいるような気がして、花を贈る楽しさも教えて貰った。

あれから大切な人には花を贈っている。花は優しさや笑顔を人にも自分にも思い出させる。

それから5年後、熊本で地震に遭った。
その時に花の絵を描く人に出会って、勇気を貰った。

更にそれからももう4年経って今になる。
あれからもそれからもこれからも始まってる。

今日しか未来はない。
先日先輩が言った言葉。
自分にも花を贈ろう。


8年前の自分。

言葉を直接届ける機会をいつか何処かで作れたら!