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空気を読む。でも左右されない人。「言挙げる好奇心」。

空気を読む。でも左右されない。

日本人に見られるこの空気の話は、先の戦争でも昨今のコロナ情勢でも良く聞かれる物事だ。
そういう人間の育まれ方について教育だったり島国という遺伝や地理的な問題だったり語られるけど、この人間が持つ空気を読む力についてばかり語られるが、読んだその後、物事にどう判断して行動するかが、読んだ空気に左右されるかされないかなのではないかと思う。

成功によっての因果関係から既存の手段や方法を考えていく、失敗を反省する、結果より精神感情論に傾くそれぞれ悪癖と関係性。
失敗は分析していく、目的と目標を創造していく、それによって生まれる新しい行動をしていく、チャレンジをする。
失敗は反省ではなく、本質を掴むものだった。

勿論空気が読む力の差異はあるから「あいつは空気は読めない」という表現も当てはまると思うが、「アイツは空気に左右されない」という表現が多くは正しい。

自分の枠や主観や価値観、またはハマっている社会の中で考えるから「読めない」という結果になるんだろう。

人は多様であり、そして今だからこそ伝わると思って今回のタイトルを言語化してみた。

国家や社会、組織という中で非常にマイノリティな部類は、行き辛い。組織や社会の中枢になる事はなかった。しかし人間の歴史の中では菌や疫病の抗体を持つ少数が生き残って来た。
今この転換点に「読めないと捉える人」「左右されないと捉える人」と捉えるかは二分する。割合は大きく偏る。
菌に対して免疫を持つ単位と捉えても似ている。よって左右されない人が生き残る≒「自分で判断行動出来る人」となる。

逆の部類は協調や集団性を求める鰯の大群的な行動ととても似ている。みんなと一緒なら怖くない、生存確率も運命的なもの。
その生き残り方に否定はないけど、空気を読む、左右させて合わせる事は自身を閉ざす事には致命的な事だと思う。

なので目にわかりやすい数値化されたものに軸がいく。そういう社会であり国ではある。ここを変えるのは、僕の経験から音楽や踊りというフォーマットから大きく学んだ。芸術にはその力があるアートのパワーは、経済にも社会に絶対必要だ。
今まで「自分の好きなもの」に嘘は一つもつかなかった。
踊りでは、若気の至りで人を否定する事も昔はあったが、自分の価値がまだ揺らいでいた未熟さだった。しかしその人価値観の相違だと分かってはいた。

耳で聴いた音楽だったり目で見て、肌で感じてみた旅の景色だったり体験というものは、やっぱり今ココでしか全ては伝わらなくて、複写したり再現する事よりもやり方としては、言語化して文章する事が凄くぴったり。テキストでなくてもいい、対話という形は本来は発声で今はその場が、SNS上になっているだけだ。
どちらも良いけど、量と質は必要。

旅で出会った自然の景色や出来事、人との出会いでも同じ事を感じて明確になったのは、30の時だった。

こういった啓蒙は、書籍で伝えようとしたりインターネットで繋がったり徐々に広まって企業したり活動したりしている、小さな社会現象は起きている。
僕もその一人として、言語化をこだわってここで書いている。「言挙げの好奇心」から書籍を出したい、社会に対してもなんらかの貢献していきたいと会社内でも外でも友人達でも寺子屋的なものを小さくも行っている。

言葉からそれぞれが想像する事はそこにその人にしかないものであって、その価値がある。

どう考えるかどう動くかの思考と行動力の問題を「空気」という目に見えないものを読む力に長けていた日本について今日は考えてみた。

これからは左右されない力を身に付ける為?思い出す為にはどうしたら良いかを引き続き残して行く。

高城剛さんが趣味という言葉が無くなる、と言っていたのを思い出した。趣味という単語の意味も本質へと変わっていくだろう。
芸術、その価値観=好きなものという事と今は表現しておく。

言葉を直接届ける機会をいつか何処かで作れたら!