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世界、旅人、コスモス。

「世界は数多くあるのだろうか。ただ一つの世界しかないのだろうか。これは、自然研究の中で、もっとも気高く崇高な問題である。」アルベルトゥスマグヌス(13世紀)

世界とは認識。
世界は一つしかない。

ただ一つの世界として僕、私。
という命の重なりを持つ。

広がりのある世界を自分という座標から刻々と知っていく。私、という世界で海溝のような深みだったり山頂のような高みだったりを内省と体験で見つけていく。
一つの世界。

他の座標点という命を数多くの世界、と呼んでみる。

各点は空間軸と時間軸の重なりに漂う。
点同士はすれ違い、衝突する。
重なったり壊れたりする。
出会いという現象で時に繋がる事もある。
新しい星が生まれるように点と点が命を結ぶ。

数多くの世界は点である。命であるし、結びである。
点と点はコネクトし、リンクする時、
他の点と自分を重ねる。
そして内省と体験は必ず私に立ち返る。
世界はまた一つしかなくなる。

肉体という点に心という値。
自分の世界、一つしかない。
有機物の塊、多細胞な肉体、僕、私。
という認識は一つである。

声なき言葉を持って点は存在する。
多くの点の繋がりと結びがある。
一つの世界を作る。
今という命は、結びは他の点として生きることはない。繋がりは結びは点と点の関係性。
二つの点は個々の点であって一緒という表現を一つとしてしまう。

緒は、点と点と繋げて結ぶ、一つの点ではなくて。

友人から本を紹介してもらう事もそういう事である。
去年3人の友人から紹介してもらった3冊の本をだらだらと要約読み終えて思った事。

付加価値を本質価値にひっくり返したい、なんて思ってる自分がいたりする。

付加価値と呼ばれるものが本質の価値であって、付加というついでやおまけ的な呼ばれ方をしてしまうことがもどかしい。
双方を繋げるような言語化を音楽を頼りに考えている。


アイリッシュで暖まれる楽しみ。
ギターの音が気持ち良い。Moonriver、月が綺麗なfuglenの夜。

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この距離から見る地球には、特に興味を覚えないかもしれない。けれど我々の目には違って見えるはずだ。もう一度この“点”について考えてみて欲しい。ここだ。これがふるさとで、私たちがいる。この点の中で、あなたの愛した全ての人たち、知り合いの全員、今まで耳にしたことのある全ての人たち、人間ならばどこの誰であろうと、ここに生きてきた。
 
 至福と苦痛の集大成が、
 何千という自信に満ちた宗教が、思想が、経済教義が。
 全ての狩猟採集者が、全ての英雄と腰抜けが、全ての文明の創始者と破壊者が。
 全ての王と小百姓、
 全ての愛をささやき合う若い恋人たち、
 全ての父と母、希望の子供、
 全ての発明者や探検家、
 全ての道徳的な教師、
 全ての腐敗した政治家、
 全ての偉人や最高指導者、
 全ての聖者や罪人がーー。
 その全ての人類の歴史がここにある。塵の微片さながら、太陽の光の中に浮遊しながら。
地球は、壮大な宇宙のアリーナの中の、小さな舞台だ。このわずかな“点”の瞬きの支配者となった、全ての将軍や皇帝の勝利と栄光の影で、流れ出たおびただしい血の量を考えてみて欲しい。この1ピクセルの“角”に存在する住民が、まるで見分けのつかぬ別の角に存在する住民に対する、その終わりなき残虐行為を考えてみて欲しい。なぜゆえに人類は頻繁に誤解し合い、殺戮を熱望し、強烈に憎悪し合うのか。
私たちのおごりが、私たちのうぬぼれが、宇宙で特権のある地位にいるというその錯覚が、この色褪せた光に試されている。この惑星は、大きく暗い宇宙空間の中にひっそりと存在する、孤独な“しみ”でしかない。こうも広大な宇宙の中でぼんやりとしていては、人類が人類を救うきっかけは外からは来ない。
地球は人類の知る中で、生命を宿す唯一の世界だ。少なくとも近い将来、人類が地球外へ移住できるその時まで、私たちに行くあてはない。行き着くことは出来る。定住はまだ無理だ。否が応でも、しばらくは地球にいるよりない。
天文学という学問は、謙虚に人格を変えられる“教え”だと言われてきた。おそらく、遠く離れた小さな故郷を見せつける以上に、人類の愚かさを実感させてくれるものはないだろう。私にはこの点が、より親切に互いを思いやり、色褪せた碧い点を守り大事にすべきだと、そう強調しているように思えてならない。
それがたった一つ。我々の知る、ふるさとなのだから。  ーーカール・セーガン





言葉を直接届ける機会をいつか何処かで作れたら!