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SMAPとたくさんの「小さな物語」

2011年まで東京で漫画家をしていた一色登希彦さんという方が、2012年3月12日付で書かれたブログエントリー
『3.11以後に通用する物語』
http://toki55.blog10.fc2.com/blog-entry-298.html
がずっと気になっている。
一色さんは、被災地を訪れた人の「石巻。被災地現地の人たちは、誰もが『話を聞いてほしがっている』ように感じた」という言葉と、震災後1年間にご自分が感じておられた、「震災と原発事故のあと、みんな、ますます今までの漫画を必要としなくなって、読まなくなってしまったのではないか?」という仮説とが「繋がっている事として理解出来た気がした」と記している。

一色さんは、被災地の方々の中には、あの震災経験を通して生まれた、語られることを待っている「物語」があるのに、それは震災前に存在した、どの「物語」とも合致しないために、掘り起こして共有されるための新しい「物語」が必要だと感じている。
しかし、一色さんも含めた「物語」の作り手・伝え手の側の「人間観」が更新されていないがゆえに、実際には、その現実に対応した「物語」を作りあぐねている。

やがて一色さんは、作家・村上春樹さんの創作のアプローチからシンプルな事実に到達する。
それは、大きな経験をして新しい「物語」を必要としている当事者の中に、すでに存在している「物語」に耳を澄ますこと。
事前に用意された、マスを対象とした「大きな物語」に個をはめるのではなく、個に寄り添う「小さな物語」へと
その視点を転換すること。

SMAPの解散報道、特に、あの残酷な会見をきっかけにSNSを始めたファンは多い。
それは、凄まじい勢いでメディアが押し付けてくる「大きな物語」が、あまりにも自分たちの経験とはかけ離れていたからだ。
だからファンは、自分の内にある「物語」を適切に物語る言葉を、縋るようにしてSNSに探した。

「不仲」「裏切り」「彼らはSMAPをやめたかった」「いい年をして、いつまでもアイドルなんておかしい」
押し付けられる物語は、確かに多くの人にとってはわかりやすく、頷きやすい「大きな物語」かもしれないけれど、長年彼らを見、彼らから聞き、自分の心で感じ取ってきた人たちの実感からは、あまりにも遠かった。

一色さんが記したのと同じように、このことにおいてもまた、それ以前の価値観や枠組で作られる「物語」は、この大きな経験をした人たちにとっては何の意味も持たなくなった。
多くの人に愛されるアイドルが、彼らに思いを寄せる人たちの面前で、その誇りも功績も、何より人としての尊厳を理不尽に踏みつけにされた。
あってはならないことが起こったのに、その衝撃を経ずに作られた「物語」に納得できるわけがない。

「大きな物語」が、真実であるかのように人々に浸透していく中で、ファンは自分たちの中にある彼らを必死で語り、聞き続けた。
SNSには、そんな個々人が大切に抱えてきた「小さな物語」が溢れ、「大きな物語」に押し潰されそうなお互いをつなぎ、支えあっていた。

それでもファンが不安だったのは、なぜだか理由はわからないけれど、SMAP自身が彼らの口で、彼らの「物語」を語るのを聞くことが叶わなかったから。
もしかしたら私たちもまた、彼らに自分たちの「物語」を押し付けている側なのではないだろうかという不安。

でも、あの大晦日の中居正広さんの言葉に、
2017年9月に届けられた新聞広告に、
必死で語り継いできた「物語」が彼らにも届いていて、
誰よりも残酷な経験を生きてきた彼らの「物語」に、あの時確かに寄り添えていたことを知らされた。

3人が事務所を退職して新しい地図が始まり、2人が事務所に残るという変化の中で、彼らにはまた「物語」が押し付けられている。
「もはやアイドルから脱した」
「今までとは違ってイキイキしている」
「ずっとやりたかったことをやれるようになった」
それもまた「物語」の作り手、伝え手が、現実を映し出す「小さな物語」に耳をすますことなく、更新されていない旧い枠組で作り出した「大きな物語」だ。

しかし、本人が語る言葉がちゃんと伝わり、それを直に受け取った人たちが語る「小さな物語」が広がって共有される時代には、そんな「大きな物語」はどんどん通用しなくなっていく。
たとえ、いつまでも旧い枠組みを手放さず、人々をそこに押し込めたいと願う力をもってしても。

いや、彼らは何も語っていないのだから、あなたたちの「物語」も押し付けだと言われるだろう。
そうかもしれない。
でも本当は、彼らは既に雄弁に語っているのだと思う。
ただそこから聞き取って物語る、「物語」の作り手、伝え手としての仕事を託されている人たちが、自分の中の「人間観」を更新することを怠って、正しい「物語」を語れないでいるだけだ。

そして、最初の一色さんの問いかけに戻る。
3.11以後に必要とされた「物語」は、果たしてちゃんと語られてきたのだろうか。
私たちは当事者の中にある「小さな物語」に耳をすましてきただろうか。 「復興」という「大きな物語」にたくさんの「小さな物語」を回収し、何かを語ったことにしていいのか。

3.11とSMAPを並べるな、と言われるかもしれないけれど、私は自分が考えられるところからしか考えることができない。
そしてこれは最後には、同じところに辿り着く気がしている。

ここまで書いて思うのは、
SMAPって、「小さな物語」に耳をすまそうとしてきた人たちだな、
少なくとも「真実は人の住む街角にある」と知っている、そう感じさせてくれる存在なのだなとあらためて思っている。

SMAPファンとして書籍を上梓したこともある乗田綾子さんが香取慎吾さんの個展について
「それはある意味、アイドルが普段からテレビやライブを通じて行っている『1対1の感情交流』」と評していたけれど、とても不思議なことに、彼らもまたテレビの向こうのファンとの関係を、きちんと「1対1」として感じていたのだろうなと思える節がある。

彼らはかつてはSNSをやりたいと思わなかった、と話しているが、それは彼らにとってはSNSが、顔が見えないマス相手のイメージだったからだろう。
しかし実際に始めてみると「意外と人間が伝わる」(稲垣吾郎さん)。

彼らはこれまで漠然とは認識していた、
ファンそれぞれの「小さな物語」に直に触れた。
それぞれに固有の「物語」の中で、それにもかかわらず、自分たちが共通の登場人物として存在していることを知った。
それらの「物語」が一人一人を支えていることを知り、その一人一人が自分たちの「物語」を支えるリアリティを知った。
そして今は、できるだけ長くその「物語」と共にあって、寄り添い続けたいと、その思いを口にする。

そう考えると、3.11以後に必要とされている「物語」もまた、一度完成してそれでおしまいなのではなく、
当事者たちの「物語」に耳をすまし、
日々変わりゆくそれらの「物語」に寄り添うようにして共にあり続ける存在そのものなのかもしれない。





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