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THE BEST WAY IS TO LOVE ーそれが彼らの闘い方

元旦にNHKで放映された『100分deナショナリズム』を巡って、MCを務めた稲垣吾郎さんが、一部の著名人のTwitterアカウントから口さがない批判を受けるという出来事が起きた。
番組のテーマ自体、様々な意見や議論を生むことが想定されるものではあったが、その批判は番組の流れやコンテキストを無視して切り取られた稲垣さんの発言をあげつらったもので、明らかに理不尽だった。
しかし、一旦既成事実となった批判は瞬く間に拡散し、元ツイートに賛同する主旨の大量リプライをはじめ、SNS上には稲垣さんを人格的に否定し中傷する言葉までもが溢れた。

一方この批判に対して、ファンはもちろん、実際に番組を見ていた視聴者たちからは、すぐに異論の声が上がった。
それらの多くは、批判の的となった稲垣さんの発言の本来の意味合いや、番組内でのスタンスの正当性などを冷静に分析するとともに、難しいテーマを的確に捌いた番組MCとしての稲垣さんの采配を高く評価することで、この批判の不当さを明らかにするものだった。
また一部のファンの間では、稲垣さんに対する事実に基づかない人格否定や差別的なツイートを「通報」するという動きも起こった。

こうした動きが影響を与えたのかは定かではないが、それからまもなく、騒動の元になった著名人による批判ツイートが本人によって削除された。また、それと相前後して2種類のネットメディアがこの件を取り上げ、丹念に番組を検証することで、当該の批判の不当性を指摘する記事を掲載した。
これらをきっかけに、少なくともネット上で当初高まっていた稲垣さんへの批判は急速に収束へと向かった。

ところで彼らのファンの間では、しばしば「愛あるやり方」での応援が話題に上る。
それは悪意に悪意で応酬するのではなく、以前、中居正広さんが出演したCMのキャッチコピーになぞらえて「言わせとけ」の精神を保つこと、
具体的には、理不尽な批判や中傷を相手にせず、抗議も反論もしない彼らの姿勢に倣って、むしろ彼らへのポジティブな言葉を発信することに注力すべきだということだ。
今回もそのような声があったし、稲垣さん自身も以前からそうであるように今回もSNS等を使って反論することはなかった。
この本人の冷静な対応も、結果的に彼の評価を高めることに繋がっている。

しかし現実問題として、今回のような明らかな「濡れ衣」に基づく誹謗中傷に対して、本当に沈黙が有効かというと意見は分かれるところだろう。
実際、今回のケースでも前述の通り、何の対応もなく看過されたということはない。
むしろ文字通り全くスルーしていたなら、このような素早い変化が起きたかどうか疑問に思う。
特に一般視聴者の冷静な言葉で、あの批判の理不尽さや悪辣さに対する「NO」が明確に可視化されたことは、後に出た記事を後押しする世論形成にも重要だった。
たとえ稲垣さん本人は反論しなくても、彼の仕事ぶりを見ていた多くの人たちが不当な批判を許さず、素早く事実を検証し、この批判の問題点を明らかにしたことが、思いの外早い収束に結びついたと考える方が自然だろう。

今回の出来事の顛末を見ながら、私はあらためて「言わせとけ」は、自分たちのしてきた仕事、つまりは彼らのエンターテインメントに対する誇りと、それを見てきた人たちへの信頼なのだなあと感じた。

私は、彼らは意識的に反論「しない」と同時に、立場上「出来ない」のだと思っている。
しかし、たとえ彼らが反論しなくても、そんな彼らに代わって「きっと声を上げてくれる人たちがいる」「真実を理解してくれる人たちがいる」という信頼がなければ、さすがの彼らでも、とても耐えられないだろうとも思う。

私も含めたたいていの人は、理不尽な攻撃には自分で声を上げなければならない。普通は、自分の代わりに誰かが声を上げてくれることなど期待できない。
そのような攻撃がまかり通る場所では、声をあげることは危険を伴うことだから。自分のことさえ勇気が出ずに沈黙するのに、ましてや他者のためならなおさらだ。
だから、多くの人は結局泣き寝入りをすることになる。
そういう意味で彼らの闘い方には、時々羨ましさを覚える。
いや、そういう闘い方を可能にしたのは、長年にわたる彼らのエンターテインメントに対する誠実さ、専心、献身があってこそで、やっぱり、こんな闘い方は彼らにしかできない。

それは同時に、エンターテインメントの世界で生きている彼らが、制約のある中で選択しうる最善の闘い方でもある。
彼らだって悔しさで叫びたいこともあるだろうし、「それは違う」と自分の言葉で弁明したいこともあるだろう。
でもそれをするには、彼らに課せられている使命はあまりに重い。

正直に言うと私は心のどこかで、一貫して声を上げない彼らに歯がゆい思いも持ち続けてきた。
悪意を野放しにすることは、彼らだけではない、やがては他のところにまで波及することになるのにと。
けれどもこれは、自分たちのあり方に絶対的な自信と誇りがなければ、これからもずっとそういうあり方を貫く覚悟がなければ、そして人の中に眠る善意や良心を信頼していなければ、とてもできない闘い方だなと、ついに納得した。

それはもちろん、理不尽な目にあっても声を上げたり反論してはいけない、ということを意味しない。
彼らに対する不当な扱いに対して本当に全く声が上がらず、反論もなかったならば、彼らが今もあの場所に立ち続けていることもないはずだ。
実のところ、彼らが最も理不尽な暴力に晒されていたあの日、彼らが共にエンターテインメントを作り上げてきたはずの業界人たちは、ほとんど声を上げなかったように見えた。
それゆえに、彼らは確かに一度はその立ちどころを追われたのだ。それは彼らにとって、どれほどの痛みだっただろう。

だから、その先も無言を貫き続ける、貫き続けざるを得ない彼らの代わりに、それでもきっと誰かが声を上げるはずだと信じることは、もしかしたら彼らにとっても大きな賭けだったかもしれない。
けれども多くのファンが上げ続けた声が、あらためて彼らにこの闘い方への確信を与えたのではないだろうか。

今回の騒ぎの最中に、酷いツイートにぶら下がった、さらに酷いたくさんのリプライに埋もれながら、多分日頃はそのツイート主の擁護者らしき人が、「彼らが震災の時に日本に何をしてくれたのか忘れたのか!」と孤軍奮闘しているのを見た。
彼らは、いつかこんな時のために種を蒔いたわけじゃないけど、それを大切にして忘れないでいる人はそこかしこにいる。

もちろん彼らには、たくさんの人に声を上げてもらえるその資格ある。
しかし、たとえそうではない人であったとしても、誰かが苦しんでいるなら、本当はそっと寄り添うべきだ。
何より、それを実践してきたのも彼らだった。

だから私は彼らがこの闘い方で勝っていく姿を見たい。
それはきっと、この社会の価値観をひっくり返すほどの大きな意味を持つ。

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