月の光

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  携帯電話が静かに震え、浅瀬に漂う徹の意識をこちら側へ手繰り寄せる。風呂に入らず、歯も磨かず、スーツにくっきりと刻まれた皺を見て徹は溜息をつく。へばりついた身体を強引に引き剥がし、除菌スプレーをソファの窪んだところに吹きかける。早耶がこの光景を見たならきっと静かに怒り出すに違いない。顔色は変えずとも、気配に感情を潜ませるのが彼女の得意技だ。
 
 幸い彼女は実家に帰っていて、今ここにはいない。いつここに戻って来るのだったか思い出そうとして思考が途切れる。明滅する明かりが視界を塞ぐ、頭痛の予感がして徹は目を閉じ、呼吸を深く整える。連絡をしてきたのは彼女に違いなかった。徹は遠くでひっそりと揺れる不穏な明かりを夢の中から持ち出していた。洗濯機の奥へとシャツが押し込まれ、意識はそこへ置き去りにされる。

 二人は同じ会社の事務と営業で同時期の春に入社したが、支店の営業として配属された徹が本社の事務をする早耶と初めてプライベートな会話を交わしたのは年も暮れようとする12月のことである。早耶は事務所のカギを無くした徹の帰りを待っていた。石油ストーブの暖かさについうたた寝をした早耶は、読みかけの文庫本を地面に落とした。戻った徹はそれを拾い上げ、つい折り目のついた頁を捲った。二人は読書家であった。

 二人は趣味を通じてプライベートに外で会う機会を得た。共通して好きな作家もいたし、互いが話題に挙げる作品には興味をもって耳を傾けることが出来た。二人の間には尊敬があったし、3度目に外で会った日、二人は日中からお酒を飲める店を梯子し、いつものように最近気になっている本の話をした。すれ違う人影に誰それの作家性を見出しては笑った。そんな風に時間は過ぎ、二人は示し合わせたように終電を無くした。

「こうなる予感がしてた」
早耶はホテルのベッドの上で、身体を徹に寄せながら無邪気に囁いた。徹は明かりを最小限に調節した暗がりの中で、天井を見上げながら早耶の声と彼女の身体がシーツの上で滑る音を聞いていた。
「僕は正直に言えば驚いている」
徹は言って早耶の輪郭を強く自分の方へ引き寄せた。

 体液を媒介して熱が伝わる心地よさと、足りなかったものが埋まる充足感を覚えた。互いの事で知らないことは何も無いと思えた。実際二人はそれを目的に少ない機会に互いをさらけ出し、この夜に至った。

 ほどなくして、二人は同居を始めることになった。早耶からひとつ屋根の下で暮らすことを提案され、徹には僅かな躊躇いがあった。かつて、真面目な両親は籍を入れずに異性と同居することを嫌がった。時も場所も遠く離れた今、その教えは徹の心根に染み付き離れなかった。それでも、疲れ切って帰る家に灯る明かりは、一人暮らしを始めて一年経とうとしている徹には魅力的に思えた。束の間でも心を通わせる日々への期待が、徹の頑なさに綻びを生んだ。丁度徹は2DKの部屋に住んでいて、早耶は部屋の更新を翌々月に控えていた。二人の生活は違和感もなく自然と形を成していった。
 
 二人の生活は順調に進んだ。趣味を通じて育まれた尊敬の念は消えず、互いへの理解を妨げることもなかった。時には抱えた疲れやストレスが、複雑で奇怪な形で記憶と結びつき、感情を伴って相手へと向かうこともあったが、許す強さと許される弱さを持ち合わせていた。支え合う関係をお互いが心地よく享受した。

 シャワーを浴び終え、体を拭き上げる。冷蔵庫からビールを一缶取り出し、流しに立ったまま一息に半分ほど飲み干す。
 バルコニーからは月が良く見えた。深い夜の中で輪郭を保つ満月が辺りを照らしている。寝静まった町からサイレンが上がり、遠ざかる。徹はこの景色が好きだった。残りのビールを一口ずつ喉を潤すように飲む。早耶の事を考える。世界が夜に浸っていることを確かめるように息を深く吐き、吸い込む。10月の空気は9月のそれと比べて格段に澄んでいて、肌寒くもある。徹は目を閉じている。

「私ね、当時神奈川の本屋でアルバイトをしていたの。」

 早耶が冬に立ち枯れた古木のように突然話を切り出したのは、同居が始まって1年目の秋だった。二人は食前に小さくカットしたミモレットやゴーダをつまみながら、ワインを飲んでいた。共通の友人の結婚式に参加した時、式場で飲んだ白ワインは珍しく「美味しい」と二人の意見が一致するものだった。帰宅した後に式場に問い合わせると、自社のワイナリーで製造したワインで、式に参加した人のみインターネットから注文することが出来た。二人は喜んでそれを注文した。

 食事の間、互いの足が頻繁に触れ合った。ソファの上で早耶は静かに徹にもたれかかっていた。触れ合う体温は心地よく熱く、呼吸に波打つ柔らかさを徹は感じていた。お互いの身体がお互いの形に寄り添い、熱を交換する。早耶は吐息と共に小く、しかし精密なオルゴールのように凛とした声で囁いた。徹は窓を雨粒が叩くのを数えながら、早耶の頭を撫でた。

「私は大学の4年生で就職活動をしてた。でも全然、ちっともうまくいってなくて。」
その声には不安や迷いが多く、引き返せない迷路を歩むような繊細さがあった。
「私。私を責める人は誰もいなくて、私自身もそうやって振舞って、何も問題ないんだって風を振りまいてたの。でも、結局私にとっては私でしかないから、辛くなると誰にも会いたくなくて、部屋の中でじっとしていたの。本当にじっとしているだけ。心地よく家の中にこもっていたの。でも、そうしていると、窓の外を歩く人の足音(私はそのころマンションに住んでいたのだけれど)とか、両親がいない間に鳴るチャイムが、次第に全部私に向けられている気がしてきたの。私は今世界から孤立していて、今こんな私に気が付かれてしまったら、誰も振り返ってくれなくなってしまうのに、世界はありとあらゆる隙間をほじくり返して、血眼で私を探している。そう考えて、突然悲しくなって、みじめで、怖かった。本当に馬鹿な話だけれど。」

 徹は続きを相槌で促し、ぬるくなったビールを一息に流し込んだ。予感が焦燥を伴って徹の心に渦を巻いていた。早耶が語るのを止めるべきか、彼には分らなかった。話がどこへ向かおうと、それを綺麗に着地させるのが彼の特技だった。足りなければ補い、逸れれば軌道を微調整する、言葉が彼の中には備わっていた。その主翼がどこへ向かうのかを捉え、見失わない眼を持っていた。しかし、早耶はどこにも着地をしたがっていない。少なくとも徹はこんなに取り止めがなく歪で稚拙に話す早耶を、これまで見たことが無かった。風がカーテンを持ち上げ、月明かりを部屋へと運んだ。

「つまり、なんの話なのかと思う頃だと思うけれど、私、そんなだったの。世の中がおかしくなっていってたでしょ、あの頃。私はあの日、一通り知り合いやバイト先と連絡を取り合って、それから椅子に足を抱えて毛布にくるまってテレビを見ていたの。私、悲しいなって顔をしかめてさ。でも、始めはどこか遠くで、でも気が付いたら心の中で、私、喜んでたんだよ。あぁ、惨めなのは自分だけじゃないかもしれない。世界がおかしいなら、私にだって執行猶予が与えられるに違いないって。私はこんなでも仕方がない。私自身それなら強く生きられるかもしれないって。嫌いにならずに済むかもしれないって。

 それで、ねぇ、本当にごめんなさい。こんなこと話すつもりじゃなかったのに。でも、言いたいことは、私は強く願ったの。私がここから這い出ることが出来なくても、許されるような世界になりますようにって。もっとひどい事が起こって、このまま、何もかもおかしくなってしまうようにって。強く強く、心の底から願っていたんだよ。誰も二度と立ち上がれないように。毎晩、毎朝。」

 徹は話の終わらないうちから、両腕の中に早耶を抱きしめていた。早耶は震えていた。身体は熱く、アルコールが回っていることがわかった。髪に鼻をうずめると、早耶の使うシャンプーの匂いがした。同居し始めたころに勝手に使用したのを咎められて以来、徹はそのシャンプーに触れたことがなかった。徹は早耶を抱きしめつつ、しかし同時に早耶が今ここにいないことに気が付いた。早耶の中には大きな空洞があった。大地の裂け目を見た。崩れ落ちた瓦礫を、踏み入れることが叶わなかった廃墟を。嗚咽して痛めた喉を。それは誰のものでもない、あの日の徹の記憶だった。膿んで黄土色に変色した傷口から、真っ赤な血液が流れていた。現実とは思えない鮮やかな赤は、床に黒ずんだ血だまりを作った。徹は架空の床を撫で、指についた血を口に含んだ。

 徹は目を開ける。月の光を浴びながら、徹はその晩を反芻している。そのまま寝入った早耶の上下する息遣い。次第に肩に深くしな垂れる重さ。胸に抱えたままソファに沈んだ際の呼吸を、心臓の動きを。

 徹は夢を見ていた。瓦礫だけが残る廃墟に独り残された自分を。廃墟は苔むして色づき、風化しつつある景色を自らの上に何層も積み重ねている。明かりが差し、若草がもえ出る瓦礫の隙間を照らしている。廃墟は微動だにせず、時を止めていた。随分と奥まで来てしまったものだと、徹は思う。

 止まった廃墟の中で、徹の知っている少女が音もなく駆けていく。視界には映らず、徹は自らの眼の奥を覗き込むようにして少女を見る。吐き気が襲う。少女が歌うメロディは耳に懐かしく、だがその旋律を辿る事はできない。少女は歌い、徹は思い出すために記憶をめぐる。徹がそこに立つと記憶の蓋はきれいに開いている。徹はその淵から中を覗き込み、誰か見知らぬ人々の足跡が幾つか残っているのを見つける。だが、そこにはもう誰もいない。少女は縁に腰掛け、徹を見つめ歌う。そのうちに少女は飽きてしまい、廃墟の奥へと向かう。足早に、軽やかなステップを踏みながら。

 徹は遅ればせながら少女の手を取ろうと追いすがる。しかし、彼は気が付く。そこへ少女と連れ立って行くことはできないのだ。彼は結局、そこに一度も踏み入っていない。あの時背を向けたそのままでここに立っている。徹は今になってようやく思い出した自分に苛立ち、拳を瓦礫に打ち付ける。次の瞬間には足から力が抜け、くずおれた。いつか見た傷口は自分自身のものだった。いつか傍に居てくれた少女を思い出した。既に血は止まり痛みもない。どこに傷があったのか、わからない。

 雫が波紋をつくる。水面が揺れ、広がる。返す波が打ち解け、たゆたう。零れ落ちた涙を少女の手が掬う。徹が目を覚ますと、ベッドの縁に座った早耶が手を握っている。冷え切った体がかじかみ、目の焦点が定まらないでいる徹に、両の手が優しく、ここに戻ってこられるようにと添えられている。早耶がからかうように徹に呼びかける。

「うなされていたみたいだけれど」
一呼吸置いた早耶の笑みが暖かく風のように吹き抜ける。
徹はそのあとに続く言葉を知っている。
返答に用意した言葉を吟味する時間は十分にあった。
「どこへ行っていたの?」
「寝ていたんだよ」
徹は間を置かず答えた。
徹は考える。僕はどこにいるのだろう。
記憶の前後も無くただ引かれた手を、
徹は汗ばんだ手で握り返し、微笑む。

8

 祈るようにして、二人は手をつなぎ夜を超える。幾夜を幾晩を。月明かりがこれまでと同じように二人を照らす。壊れてしまった世界で月は燃え上がり、ひっそりと沈む。廃墟は影の象を変える。その意味を誰も知らず、夜はこれから来る世界を待ち望んでいる。


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                            絵 uyufaM

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