鋼鉄乙女のモン・サン=ミシェル戦闘記(34)
──とは言ったものの、だ。
ほどなくして、ラドムは自分の意固地さを後悔することとなる。
闇雲に歩き出したはいいが、当てがあるわけではない。
そもそも、この辺りの土地勘など一切ないのだから。
草原から道なりに続く小高い丘へと登り、周囲に木々や茂みが増え出したことに気付いた。
ラドムはワルシャワ生まれの都会っ子だ。
きょろきょろと足元を見回すことしかできない。
祖父の書斎にあった『食べられる野草 食べてはいけない毒草』という雑学書の内容を思い出すものの、まさかあの時はこんなサバイバル生活に陥る日がこようとは考えてもいなかったので記憶は曖昧だ。
その本を飛ばし読みしていたあのころ、あの場所を思い出したか、彼の眼の光が沈んだ。
葬式を偽装し、死者となった自分がポーランドの自宅に戻ることは一生あるまい。
ドイツ兵に怯え暮らしていたあのころは、文字通り地獄だったのだと、改めて思う。
しかし、だからといって今が救われた状態なのかと問われれば、それもまた疑問だった。
むしろ死の危険は、より増した気がする。
今だって飢えでどうにかなりそうだ。
「……ロム、死んだのかな」
思考の方向を変えるための独り言だったが、ラドムの声はますます沈んだ。
生きているとは思えない。
アミの腕であれだけ殴られ、あの海に落ちたんだ。
──一緒に行くならアミさんを守れよ。
ガリル・ザウァーらと出かける前、ラドムに向かってそんなことを言っていたロム。
アミに殺される瞬間、彼は果たして何を思ったのだろう。
「……何も殺すこと、なかったんだ」
そう思う。
ロムは母を、そして仲間たちを目の前で失って、それでちょっと混乱していただけだ。
アミにだってそれくらいは分かるだろうに。
ガリル・ザウァーのこととなると、彼女は突然どんな豹変っぷりをみせるか分からない。
それでも、だ。
自分(ラドム)のことは守ると言ってくれた。
今も何かあったら、彼女が駆け付けてくれるだろう。
少女の顔を、その言葉を思い出す少年の胸に複雑な思考が燻る。
しかし同時に現実的な不安も。
二手に別れたのは失敗だったかもしれない。
ちょっと発想のおかしな彼女が一人で何かしでかしはしないか、不安がいや増す。
「いや、アミだって子供じゃないんだから。いや、でも……」
何となく嫌な予感を覚え、くるりと踵を返した少年。
そのときだ。彼の前に、背の高い細い影が現れたのは。
「!」
息を呑むラドム。
いつからそこに居たのだろう。
全く気配を感じなかった。
見上げる長身は一九〇センチはあろう。
痩せた青白い額と、脱色した髪。
そして充血したその双眸。
それは、船でアミに殺された筈のあのドイツ兵の顔と同じものであった。
悲鳴を辛うじて飲み込んで、少年は俯き、男の側を通り過ぎた。
「ね、キミ(ナ ドゥー クライネ)……えっと(ンン)、ここで何してるの(ケス ク ティ フェ イスィ)?」
──アレ、キミ、どっかで会ったっけ?
ドイツ語、それからたどたどしいフランス語に言い直された言葉を受けて、少年は黙って首を振った。
「そぉ? まぁイイや。《鋼鉄の暗殺者(アイゼン・メルダー)》って知ってる?」
「あいぜ……?」
辿々しくドイツ語の発音を繰り返して、ラドムはもう一度首を振る。
血液が凍り付く感覚。
目の前で父を、母を殺された。
腹を切り裂かれ、嬲られた悪夢のような記憶が怒涛のように押し寄せる。
──だから、何でこいつが生きてるんだ? そして何故ここに?
「ぐっ……」
込み上げるものを押し殺し、ラドムはその場を駆け出した。
ここから……とにかくこのドイツ兵の亡霊の元から逃げ出さなくては。
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