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辛口のおじいさんと、自分の居場所。

「 いつもありがとうねぇ 」と、ふいにご近所さんに声をかけられるときがある。そのたびに一瞬??となり、そのあとで「お花..」と言われると、あぁとなることが多い。

私は1年ほど前から自宅の前にお花を活けるようになった。といっても、我が家には庭らしい庭がないので、玄関の前に大きな花器を置いて、そこに季節のお花を活ける。お花は、お花屋さんや道の駅で買ってきたものだったり、畑から取ってきたものだったりとさまざま。とにかく、「外に向けて」お花を活けるようになったのだ。

家を出るとき、帰ってきたとき、ほんの一瞬のことだけれどお花と目が合う。そのたびに少しだけ気持ちが上向きになるような気がする。自分以外の「生」が近くで躍動していて、自分だけではなく人にも安らぎを与えている。ただ置いているだけなのになんだか得した気分になるのは不思議なものだなぁと思いながら、新しいお花が手に入るたびにせっせと活けている。

ご近所さんはお花好きが多くて、たいてい庭をきれいに手入れしている。季節が変わるとポコポコと色んなお花が顔を出して歩く人に向かって微笑みかけてくれるから、さんぽするのも楽しい。たまにご近所さんから、「藤の花が咲いたから見においでよ」とか、「かわいい鳥がきているよ」などラインが来るので庭に遊びにいくことがある。気持ちのいい季節には、こうしてテラスでお茶を飲みながら花や鳥を眺めているんだよという話を聞くと、そのたびにいい時間の過ごし方だなぁと思う。

たまにご近所さんの家の花を眺めていると「これはね、ムクゲといって。あげようか?」と言われてもらったこともある。そういえば去年はコスモスの苗も、えごまの苗ももらって庭に植えてみたりしたなぁ。

きっとみんな、庭を手入れすることは当たり前の日常で「与えている」とも「与えよう」とも思っていない。でも私はここに住みはじめてからいつの間にかその栄養が蓄えられて、自分も自然にお花を活けるようになった。活けはじめたときは、「外に向けて」など意識していなかったけれど、「ありがとう」と声をかけられることが増えてきて、次第に色んなことに気づいていった。いい循環の渦に片足を突っ込んだような、そんな感覚になっていた。

そんななか、ある日近所のおじいさんからこんな言葉をかけられたことがある。

「最近、忙しいんか?花が変わってないやんか」

毎日家の前を通るおじいさんで、いつもお花をたのしみにしているのだそう。会うたびに、「今日はセンスよかった」「今日はイマイチ」など辛口な評価をしてくれるおじいさんだ。

「あー、最近色々しんどくて..。お花、できなかったんです」

そう笑顔で言いながら、なぜだかポロポロと涙が出てきた。はじめて自分のなかから本音のような言葉がこぼれて、身体が反応してしまったようだった。

おじいさんは、目が悪いからおそらく私が泣いているのを気づいていなかっただろう。でも、声の微かな震えから様子を感じ取っていたようだった。

それからも相変わらずおじいさんは、活けるたびに辛口の評価をしてくれる。
お花が変わっていないときは察して、「最近どうや?」「忙しそうやんか」と声をかけてくれる。いまだに私の名前は覚えようとしないで、「はなこちゃん」と呼ぶ。私もおじいさんの名前は知っていても、いつもどこへ向かっているのかはよく知らない。ただ、この距離感が心地いいなぁと感じていることは確かだ。

最近、「ご近所付き合い」が減ってきているという。私もかつては東京でアパート暮らしをしていた。隣に誰が住んでいるかもわからず、その状況になんだかすこしの違和感を感じて、近くのお花屋さんや和菓子屋さん、うつわ屋さんに心の拠り所をもとめた時期があった。

色んな場所に住んで学んだのは、人は完全に「ひとり」では生きられないだろうということだった。広く浅くでも、狭く濃くでもいいから、だれかに見守られている安心感があるからこそ、健やかに伸び伸びと、生きていられるのかもしれない。

今の私なら、どこで暮らしてもそれなりにやっていける自信がある。
だってここに住みはじめてから、ようやく「自分の居場所」に出会えたような気がするのだから。


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