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傷ついたヒーラー

最近パンダの赤ちゃんを見たことがきっかけで一つの思考の旅をした。

最初は無邪気な子パンダが飼育員さんやお母さんパンダにじゃれついている動画を心温まる気持ちで見ていた。

すると、ある時突然自分の中に思考の波が訪れた。

それはある子パンダが無邪気に母親のパンダにくっつきじゃれついている様子だったが、それはその子パンダが母親に会える最後の日の様子を収めたものだった。
つまり次の日からその子パンダは母親パンダに会うことはできず、自立を促される。
調べてみると、野生のパンダは1歳半くらいで早々に親から自立するようで、これは野生の掟によるパンダの運命のようだが、飼育されている以上、自立のタイミングは自然発生的なものではなく、人工的に決定されるため、その愛着対象との別離は子パンダにとって突然訪れる。
突然お母さんに会えなくなる、ということはまだ乳離れも完全にできていないくらいの子パンダにとって想像を絶する苦痛に見えた。
お母さんという愛着の対象がいる時に表現されていたあれだけの無邪気なエネルギーは一体これから子パンダの中でどうなっていくのだろう、とふと思った。

その後の成長していく同じパンダの映像を見ながら連想は続いていく。

その後そのパンダが飼育員さんのいう事を聞かず頑固な態度をとったり、いたずらをして飼育員さんたちを困らせたり、突然もだえ苦しむようなジャスチャーをすることも、その受け入れがたい自分の置かれた状況に対する怒りや反抗心、それを表現しきれない苦しさを感じさせ、お母さんパンダが自分にやっていてくれたように自分の毛繕いをしようとするような行為も、愛着対象の欠如の寂しさを自分で補い、癒そうとする行為のように私に思わせた。

これらの連想が実際のパンダの気持ちと合っているかどうかは問題にしようがないが、少なくともこれらの連想が私の内側から幾分かの心の痛みを伴って現れたことは事実である。

例えば、私自身、ストレスやフラストレーションから発する攻撃性が自虐的な形で表出し、部屋をぐちゃぐちゃにしてしまったり、快楽堕ちしてしてネオ廃人化してしまい自己嫌悪に陥る、というパターンがよくあったが、そこにこの新たな「反抗心」のようなイメージを追加してみるとまた違った思考が生まれてくる。

反抗心はただフラストレーションからくる他者や自分に対する攻撃性とは違い、自分が不当に扱われている、ということに対する怒りの意思表示なのだ。それはこれまで自分自身から無視され、苦しんできた精神性の断片が存在するのではないか、という仮説を生む。

例えば、自身の存在を無条件に肯定された経験がなく「欠如感」「空虚さ」を抱えて生きてきた場合、外側にその不足している自己肯定の根拠を追い求めようとしても、それは本当に自信を持つことにはつながらない。
外側からの「承認」は自分でどうこうできるものの範疇にはなく、外的な自信の根拠は外的要因によって簡単に崩れうる。

自身の中の傷ついてきた精神性はまず自分自身に認識されたがっていて、実は何かしらの形で無意識的に表出しているのではなかろうか。

そこで内的作業の必要性に気づく。

その為には、自分自身を対象化する必要性がある。
そして自己表現を社会から承認されるためのツールとして用いるのではなく、まずは対象化した自分自身に愛を与えるツールとして用いることで、自分で自分を癒すことができた時に本当に自己を肯定でき自信を持てるようになるのではないだろうか。

「傷ついたヒーラー」という言葉をユング関連の何かである時知った。
これは「聖なる売春婦」とか「ブラックマドンナ」のように、一見矛盾する概念が結合した言葉であり、治療する主体と治療される対象が同一化している概念だ。
自分を対象化してみると分かっているつもりで実は分かっていない自分の中のもやもやしたものの存在に気づいたりする。
その「わからない」ということをまず認識し、そこからさまざまな仮説を立ててそれを解き明かそうとする時、既に「傷ついたヒーラー」の治療は始まっている。

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