普段はこんなことしないようにしています(I Wouldn't Normally Do This Kind of Thing)
## ある悪魔の肖像
俺の名前は、KC_KC_
ラーメンを食っていると、いつも背後に危険を感じる。
「お前、死ぬぞ」
誰かが俺の背中に、そういう呪詛を投げてくる。
ラーメンを食って死にかけたのは、18歳のころだった。
390円のラーメンを4日連続で食い続けた翌週、俺は病院で命の限界点を知らされた。
「あと3日遅れてたら、わからなかったよ」
医者はそう宣告した。
もともと俺は腎臓が強くないらしい。
「自分が死ぬ」なんてことを、まるで実感として側に感じたことがなかった18歳の俺。
32歳の俺。
週3のペースで、ラーメンあるいはつけ麺を食う。
死ぬために。
あるいは、生きるために。
生きるためにラーメンを食う俺は自分に何かを与えている。
色や食の快楽を抑制した生の向こうに何があるというのか?
死ぬためにラーメンを食う俺は何か罰を欲している。
罪も戒律も無いならせめて罰ぐらいはあってもいいだろう。
「そんな20世紀的テーマの現代的解釈を書き連ねたところで21世紀中盤にはもう誰も読まなくなるぞ」
ラーメンを食う俺の背中に冷や水を浴びせるのと同じ悪魔が、俺の文章にも冷や水を浴びせてくる。
「価値」や「評価」には嫌気がさしてるんだ俺は。
「誰かが読む(価値を認める)」ために書いてるのではなく、「お前を殺したい」んだ、俺は。
## あるモラリストの肖像
KCogitoは思った。
結局、カネというフェアなものを、全力で狩りに行けないモラリストは、結局ただの嘘つきということになる。
KCogitoは思った。
カネ以外のいったいどこに、行動の評価基準があるだろうか。
KCogitoは思った。
そのカネをどう使うかというのも、結局同じことだ。
つまり、カネの流入のすべてを追跡した結果が、その人の人格の上流から下流までということになる。
KCogitoは思った。
風邪から回復傾向にある時ほど、気分がなんの理由もなく高揚してくることは無い。
愛しているよ。
## 吾子よ
娘が、可愛い。
とても頼りなかった赤ん坊が、次第にぷくぷく太ってきた。
父ちゃんのこと見ると、笑うんだ。
真っ赤な顔して頑張ってウンチするし。
今が一番可愛いんじゃないかって、思える。
上の子は、3歳になりました。
イヤイヤ期。
何でもかんでも、「ヤダ!」っていう。
けど、自分から話しかけてくる時は「お父ちゃんね、あのね、今日、したのー」と、いろいろ教えてくれる。
可愛い。
今が一番可愛いのではなかろうか、と思える。
## わからないことが、わからない
KCogitoは今日も自分を責める。
無学な自分を。
弱気な自分を。
嘘つきの自分を。
もっと早く家に帰って、もっと勤勉に家のことをして、もっと妻を楽しませることができるのではないかい?
もっと勉強して、もっと一から考えて、もっと周りに話しかけて、もっと結果を追い求めることができるのではないかい?
浅はかにも、そうして自分を責めることで、自分を守っている。
かつてのKCogitoにとって、フィジカリティという名の現実に戻してくれるものが、女の肌だった。
女の好意と微笑みと肌以外に、何をもって今日という一日に肯定的な評価を下せるだろう。
今やKCogitoは、ただただ屁を空中に放ち続けるだけの迷惑装置だ。
家庭では「あぁ、こいつがもっとマシなオトコだったらなぁ」と思われ、職場では「あぁ、こいつがもっとマシな社員だったらなぁ」と思われ、取引先には「あぁ、こいつがもっとうちの仕事を助けてくれたらなぁ」と思われ、電車では「あぁ、こいつがもっと磨き上げられたイケメンだったらぁ」と思われ。
ただただ足りない自分にさいなまれるだけの一日を、「あなたは少なくとも、ある一面においては私にとっては足りている」と告げられたかのように埋められる、女の好意と微笑みと肌。
それ無しでは生きられなかったかつての自分を責めるように。
慈しむように。
新しい自分を発見したと思いこんで、文章を書いている。
俺のアップルミュージックが「ペットショップボーイズの新しいアルバムが聞けるようになったよ!!!」と教えてくれている。
## 2000年の孤独
明日、誰になりたいんだ、お前は?
その問いに、俺はこう答える。
「投資家、かな」。
その答えの「とりあえず」感に、俺は絶望する。
「お前、死ぬよ」
そうささやく悪魔を前に、「俺、投資家だから」では弱い気がする。
命の行き場を探すのが難しい。
こんな、2020年の東京では。
引き際を教えろよ、俺に。
きっとそんな時には悪魔が役に立つだろ。
書く力になります、ありがとうございますmm