お天道様が見ている。
「お天道様が見ているよ」
よく、母から言われていたと記憶しています。誰かが見ているからとか、自分の都合とかではなく、何が正しいかを自分で律して行動しなさいということです。母はいつも前向きで、気力が大事だとも言っていました。
父は、あまりそういうことは語りませんでした。兄いわく、「飲んだくれのダメ親父」ですが、いつも大切なことをさりげなく語っていたように思います。「学校には一番で入ったが、出るときはビリだった」とお酒を飲みながら努力の大切さを伝えてくれる人でした。
両親とも、私がコツコツと何かに取り組むことをいつも褒めてくれたように思います。
日本人は稲作によって生き方を学んできた
コツコツは、日本人の根っこにあるのだろうと漠然と思っていましたが、やはりそうなのだなと思えることがありました。あるご縁があって、月間「致知」の1月号を読んでいたら、「日本人は稲作によって生き方を学んできた」という言葉が出てきました。高千穂神社宮司である後藤さんのお話です。
読み終えて、私がイメージしたのは、「お天道様に感謝して、コツコツと鍬を打ち込む。そのことによって実りがある。自然の脅威にさらされることもあるが、それでも、またコツコツとやる。サボれば、実りがない」そんな姿です。
これは、おそらく松下幸之助さんや稲盛和夫さんが「生成発展」を語るときにも共通する世界観のように思います。食わんがために田畑を耕すのは、当たり前のこと。ところが、食わんがために楽をすることも社会の中で生きる知恵になったりします。それも生き方ですが、でも、お天道様は見ている。お天道様に反する生き方をしてもろくなことがない。来る日も来る日も恵みを与えてくださるお天道様のもと、自分が生かされている意味を考えなさい、考えるのが難しければ、田畑を耕しなさい、必ず、実がなるのが分かるはずだ、と。そんなことをおっしゃっているのではないかと思いました。
「実るほど、首を垂れる稲穂かな」
この言葉は謙虚さを表しています。また、感謝の意もあると言います。コツコツとやるなかで、できることが増え、それでも傲慢にならずにコツコツを続ける。自分が生かされていること、実りを得られることに感謝して首を垂れる、ということです。
私の次男は、稲穂の穂に、空とかいて「穂空(ほだか)」と言います。「感謝」という意味の言葉を彼につけてあげたかったのです。穂に続く「空」は、そこに伸びる穂をイメージしていましたが、お天道様のことだったのかと、気づきました。
やはり、私たちに根付いているものがあるのだろうと思った次第です。
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