一期一絵 映画館がボクの教室だった 

 

 自慢にもならないのだが、ボクは昭和42年から44、45年の日本映画はほとんど観ている。厳密にいうと高校時代の3年間に呉の町で封切られた映画といったほうがいい。

 わが家はいまは中通りに名を変えたが、当時の堺川通りにあった。高校は家から15分の高台にあったが、入学と同時に肌が合わず、坂道を上るあたりでめまいを覚えた。成績順がすべてで、肌が合わないというより完全に落ちこぼれていたのである。

 1年1学期で授業についていけず、居心地が悪かった。毎朝出席をとると3時限目あたりで一目散に坂道を駆け下りた。学校と家は至近距離で街をふらつくのも世間体が悪く、二河川を埠頭まで下り、宝町の倉庫群のコンテナのすき間や鋼材の山に腰を下ろし、海を見ていた。

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 授業を抜け出しても誰も気がつかなった。成績が存在を示す最大の要素のような学校だったから、存在感はまったくなく、無視されることの心地よさを感じ始めていた。

 ある日坂道を下り、市営バスの循環線に飛び乗った。バスの中から映画の看板が見えた。本通りに呉大映と洋画専門の呉シネマのビルがそびえていた。

 勝新と雷蔵が順繰りにメーンを張った大映の絶頂期で「悪名」「座頭市」シリーズも「兵隊やくざ」も「ひとり狼」もここで観た。関根恵子のデビューもここだった。

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 邦画に限定したわけではないのだが、一館だけの洋画館「呉シネマ」はラインナップが古すぎた。

 自分の身銭を切って初めて観たのが邦画だったことも大きい。当時の呉には変則ながら、大映、東宝、松竹、日活、東映のいわゆる邦画5社の準封切館が一応そろっていた。映画雑誌で仕入れた情報がまだ生乾きのうちに本物を観ることができた。東京にわけも分からず憧れていた少年にとって、田舎町と東京の時間差がないのは大きかった。

 映画館の暗闇だけが安息の場所となった。本通りに「呉大映・シネマ」があり、中通りに下手から順に「呉東宝」「1劇」「2劇」「サン劇」と続いた。東宝と松竹が「呉東宝」、東映と日活が「サン劇」でそれぞれ上映された。

 記憶が少しあいまいだが、1劇は高校の途中かそれ以前になくなった。現在のイズミの位置だが、最後は洋モノのピンク映画専門だった。対面の2劇(現ベスト電器)は高校2,3年の頃は松竹系になっていた。

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 それぞれの映画館に思い出がある。

 現在は中通りのど真ん中の廃屋と化したサン劇だが、当時は「網走番外地」シリーズ、「緋牡丹博徒」「総長賭博」「人生劇場・飛車角と吉良常」など高倉健、鶴田浩二、藤純子の任侠映画路線が、日活の裕次郎、旭を凌駕し絶頂期だった。

 階段を上がったところに東映と日活のまさにキラ星の大パネルが掲げられていた。吉永小百合、浅丘ルリ子、芦川いずみ、笹森礼子、和泉雅子が日活陣で、東映側には佐久間良子、三田佳子の後に藤純子が並んだ。

 任侠シリーズはこの街でも人気があり、スクリーンに「待ってました!」と声がかかった。館を出ると傘をドスのように抱え、ほとんど健さんの歩き方になっているのがおかしかった。

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 呉東宝が今のポポロのビルの位置に平屋であったころ、東宝には若い監督が佳作を多く発表したころだった。のちに活躍する森谷司郎が「育ちざかり」や「首」、斎藤耕一がひと味違ったグループサウンズのヒット曲映画を、また出目昌伸が「俺たちの荒野」を2本立てのサブでつくり、メーンを食ったこともあった。

 大島渚のATG映画「絞死刑」もここで観た。併映作品が成人映画だったのか「18歳未満お断り」とあった。どうしても観たかったので親父のコート着込んで襟を立てて席に沈み込んだ。トイレで小便をしていると中学時代の教師に会った。彼はピンク映画の方を観に来ていたのか、照れくさそうに上体を揺すって、視線を外した。

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 山田洋次が「男はつらいよ」を撮る前の喜劇「馬鹿が戦車でやってくる」や「吹けば飛ぶよな男だが」は、2劇で観たような気がする。寅さんの1作目は確かに2劇だった。

 というのも高3になると、映画の1回目の上映時間に合わせて授業を抜け出した。客はたいてい一人だけだった。古ぼけた映画館は、安普請で光が一条漏れ、便所の臭いが漂っていた。客が多いとそうでもないが、たった一人だと足許をネズミがうろうろして困った。客の落とすポップコーンなどの菓子屑を狙っていた。ボクは足を前の座席に載せて、ネズミの往来を避けた。

 「あたくし生まれも育ちも葛飾柴又です」の口上で江戸川の土手が映し出されテーマ曲が流れると、どこの映画館でも足許が落ち着かなくなるのはそのころの後遺症である。

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