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『ただ手を動かす』ということへの誤解。

先日友人と創作の話をしていてこんな話題になった。

彼曰く、「いま手を動かしてるやつが一番えらい」と。どういうことかと言うと、何かをクリエイトするという活動に対して、やり方やアイデアの良し悪しは二の次で、とにかく『何かを作っている』という行為自体が大切ということだという意味だった。

そして「やり方や構想に取り憑かれるやつ」なんてその「手を動かしてるやつ」に比べるとなにもできてないのと同じだ、と。

もちろんこの友人の主張はある見方の一つであり、そして真理の一つでもあるだろう。そしてそれは概ねどの分野においても正しいことだ。筋トレでいくら理想のフォームを勉強しても筋肉自体はつかないのと同じくらい自明のことである。

それをわかったうえで言わせてほしいことがある。

私にとって、がむしゃらに何かを創るということの困難さ、そしてその不安は、懐中電灯も持たずに夜の山に分け入るかのような恐怖がある。

「これは果たして面白いのか?」「これは誰かの役に立つのだろうか?」「こんなことしていても時間の無駄なのでは?」こんな事ばかりを考えてしまって何度も手が止まる。

これはひとえに自分自身に確信が持てないことに由来するのではないかと思う。

自分の中に確信が持てるものが少ないために、あるいはそう自覚してしまうために、結果として方法やアイデアに頼る形になっているのである。要するに『机上の空論』に終始してしまうタイプなのだ。

しかし、私もその一人だから自己弁護のような言い方になってしまうが、このようなタイプの人間は、方法やアイデアがあるからこそ前に進むことができる、という逆の言い方もできるのだ。

これはいわば実験を行う科学者のようなもので、仮説があるからそれを証明するための検証ができる、思考があるからそれに基づいた行動が生まれる。という順番の違いなのである。

そして私のような人間はこの『仮説を踏まえて検証』という感覚が前にすすむための推進力になっているのだ。

「こうしたらもっと筋肉に負荷がかかるのでは?」「こういう文の並びのほうがわかりやすいかも?」「一人称を『私』にしたら言葉遣いがきれいになるかも?」etc.

私にとってはこういった仮説を『やってみたい』という思考には、ウズウズとしたある種の好奇心のような側面があるのだ。

そしてその結果が待ちきれずに手が動くというようなこともあるのだ。

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