見出し画像

遠くへ行きたかったころ、京都芸術センター(旧明倫小学校)|京都


1. 最も足を運んだアートスポット:京都芸術センター

京都に住み始めてから最も足を運んだアートスポットはどこかと聞かれたら、京都芸術センターだと思う。

京都芸術センターの正面入り口。二宮金次郎像がひっそりと佇む。


四条烏丸エリアという市内の繁華街の中心部に位置し、
入館料はだれでも無料。
多くの文化施設が休館する月曜日も開館しており、
(年末年始休みと、メンテナンス等の臨時休館はあるが)
夜8時まで開いているから学校や仕事帰りにふらっと立ち寄ることもできる。


とにかく気軽に行くことができ、
開催される企画展もおもしろいものが多いので、
散歩途中に立ち寄る場所としてお気に入りだ。

さて、この記事のタイトルに「京都芸術センター(旧明倫小学校)」と書いたのには理由がある。

私がこの施設の”芸術文化施設”としての側面と、
”元小学校校舎”という建築物としての側面の、
その両方に魅力を感じているからだ。

元小学校校舎となれば、多くの人にとって(この明倫小学校で過ごしたわけではなくとも)懐かしい記憶が蘇る場所かもしれない。

けれどそれと同時に、私には思い出すことがある。




2. 元小学校校舎が思い出させること

1階廊下。カフェ、情報コーナー、図書室と続き、突き当たりを曲がると南ギャラリーがある。


京都芸術センター、もとい、旧明倫小学校に来ると、
「ひとりで遠くに行きたい」と願いながら、
授業中に教室を抜け出して校舎を散歩していた子どもの頃を思い出す。

散歩といっても大したことはない。

授業をサボるほどの勇気はなく(わりと真面目な生徒だった)、
授業中にトイレに行く建前で教室を抜け出して、
行き帰りの途中にちょっとした寄り道をするのが好きだったのだ。

書いていて笑ってしまうほど、本当に大したことのない散歩。
散歩と表現するのは怒られそうだ。
たぶん、「寄り道」の方が合っている。

授業中はみんな教室の中に格納されているから、廊下には基本的に自分以外は誰もいない。
いろんな教室から聞こえてくる声、椅子を引く音、教材の音声も、
自分とは切り離されて遠くにかすかに聞こえる程度。

教室が世界のすべてだった当時は、それらの声に私の「現実」は凝縮されていて、つまり、その声を遠くに押しやった場所でぼーっとするのは最高の現実逃避だ。

2階窓からは中庭のテニスコートが見える。


学校内には何百人もの人間がいるはずなのに、
まるでひとりぼっちになったような感覚に陥りながら、
静かな廊下、階段、ピロティをちょっとの間だけ眺める。
特にお天気の日の昼下がりは最高。
ほんのちょっとの時間だけ、誰もいない空間に私自身を切り離す。

そしていつも、
「このままひとりで遠くに行きたいなぁ」
と、渡り廊下なんかを見ながら考えていたのだ。

渡り廊下。撮影時は林智子個展「そして、世界は泥である」の会期中だったため、作品が展示されていた。


この寄り道は、友人にすら打ち明けたことのない、自分だけの密かな楽しみだった。

空間と空間を繋ぐ役割をもつ「空間」である廊下を見ながら、どこか別の場所へ行きたいと考えるなんて、小説だったら比喩表現として出てきそうな組み合わせだ、なんて思うけど。
当時の私に、そんなつもりはもちろんなく。
ただなんとなく、そう考えていただけ。

結果的に、そのへんてこな趣味、というより習性が染み付いてしまったせいで、今ではそういう空間を見ると条件反射みたいに「遠くに行きたい」と頭に浮かぶようになった。
変な思考回路を完成させてしまったものだ。

校庭からも見える時計。


ただ、今思えば、これが私にとってひとりで散歩をしたり旅行に行くことが趣味になったルーツかもしれない。
当時の「遠くに行きたい」は、閉塞感から解放されたいという思春期特有の願望に近かった気もするけれど。
それでも、あの頃は数分間だけの寄り道でなんとか誤魔化していた欲求を、大人になってから怒涛の勢いで満たしているのかも。

だからこの場所に来ると、遠くに行きたくなるし、
同時に、日々から自分が切り離される心地よい感覚に陥ることができる。




3. リミナル・スペースに足を踏み入れる


制作室が並ぶ2階に足を踏み入れて、ふと思った。

この光景って、すごくリミナル・スペースっぽい。

2階廊下。置き忘れの手袋がそこにいたはずの人の”不在”感を強めている気がする。


最近、リミナル・スペース(Liminal Space)にまつわる作品を見ることが好きだ。

作品に触れることでぞわりとしたり、不安になったり、切なくなったり、懐かしい気持ちになったりする、不思議な空間イメージである。
(もちろん想起される感情は作品による)

スペースと名がつくからには「空間」なのだが、
では改めて「リミナル・スペースとはなにか」と検索すると、こんな説明に行き着いた。

見覚えがないのに、たしかに来たことのある場所。「懐かしさ」と「未知」の間に位置する空間。ずっとそこにあったのに、刹那的な場所。内側に折りたたまれた「外」の空間。 存在したことのない場所へのノスタルジア。見慣れたものの内側に見出す不気味さ。夢のように醒めた現実感……。

矛盾する概念が一致する空間。相反するものたちが同居する空間。それらはリミナル・スペース[Liminal Space(s)]と呼ばれる。

「【コラム】Liminal Spaceとは何か-FNMNL(フェノメナル)」(2021/11/16)

リミナル・スペースに共通して現れる特徴に「無人」であることが挙げられる。移動する人々が不在の交通空間。人の気配だけが消え去った生活空間。これらは、それが本来意図して設計されたコンテクストから外れてしまっている。場所から本来の文脈が剥奪されたとき(脱文脈化)、リミナル・スペースが立ち現れる。見慣れた空間の片隅に存在する暗がり。認知の閾(liminal)において発生する、ほんの少しの違和=ズレ。日常に潜む異化作用。

【コラム】Liminal Spaceとは何か-FNMNL(フェノメナル)(2021/11/16)


もう少し噛み砕いた説明として、こういう記事も。


リミナル・スペースとは簡単に言うと、「見慣れているはずなのにどこか不気味さを感じる空間」のこと

(中略)

普段人がいるはずのところに誰もいないことがこんなにも違和感になって、その事象や景色に対して美学を感じるという、矛盾の中で独特の感性が働くのがリミナルスペース

「Liminal Spaceが大好きだ」(2024/02/29)


例えば小学生の頃、帰り道の途中で忘れ物に気づいて校舎に引き返し、
教室を目指していく最中、放課後の誰もいないがらんとした廊下が目の前に続いていることに、唐突に不安を感じるような。

お化けがいるわけでもなく、真っ暗な夜というわけでもなく、ただそこに廊下が存在するだけなのに、妙に怖い。

何がと言われても説明できないけど、一度感じた恐怖や不安は消えてくれず、足を止めて注視したことを後悔してダッシュする――。

リミナル・スペースのいち要素である、ホラーコンテンツ的な不穏さや不気味さというのは、こういう感覚に似ていると勝手に認識している。


一方で、懐かしさを覚えるところもリミナル・スペースに私が惹きつけられる理由のひとつだ。

それは、上記の説明にもあるような一般的なノスタルジアというよりも、
もっと私自身の経験と記憶、パーソナルな感覚として、
「こういう空間を見るのが子どもの頃も好きだったな」という、懐かしさ。
つまり、例のへんてこな習性に収束していく。

思えば、当時も惹かれていた空間というのは、
人のいない(本来いるはずの人々が不在の)廊下、渡り廊下、階段、ピロティ等。
リミナル・スペースの定義に当てはまる要素が多い。

結局、「寄り道」をして誰もいない階段を見ていた頃と、
SNSでリミナル・スペースの画像を検索している今とで、
どういうものが好きかという根底の部分はあまり変わっていないのかもしれない。

そんな私の趣味を刺激してくるのがこの場所なのだなと、
何度もこのセンターに足を運んでしまう理由を再発見することになった。


誤解を生まぬよう言っておきたいのだが、
この京都芸術センター、もちろん無人ではない。
開放されている各部屋にはスタッフさんがいるし、
制作室ではアーティストの方々が制作活動をしている。
1階のカフェ――前田珈琲は、ランチタイムになるといつも盛況な印象がある。
休日には中庭のテニスコートでテニスをしている団体を見かけることも。

けれど、ふとした拍子に、人のいない瞬間、空間が訪れる。

風が凪ぐ一瞬の「間」のようなものだ。

それに居合わせると、かつて寄り道をしてまで見に行った空間のことを思い出す。

学校の校舎というのは、もしかするとこういう「間」が生まれやすい場所なのだろうか。

3階へ続くスロープ。


センターの正面入り口から入り、1階の廊下を進むと、
情報コーナーと図書室のあたりで、かなり大きな音を立てて床が軋む場所がある。
そこを通りかかる時、
廊下に自分しかいないと、いつも自然と忍足になってしまう。

それは、見えないけれど近くにいる(であろう)他者への配慮というよりも、
音を立ててはいけない気がする=なにかに聞かれてしまってはいけない気がする、という感覚に近い。
それもきっと学校の校舎というスパイスが効いているせいじゃないかと思う。
懐かしさだけでなく、ちゃっかり不穏さも頬を掠めていくから油断のならない場所だ。

でも大丈夫。
2階の廊下の突き当たりを曲がったところに、扉付きの縦長ロッカーがあることは知っている。
突然のホラー展開で敵に追われることになったとしたら、隠れるならばそこだ。


ホラーゲームの定番の隠れ場所、縦長ロッカーを発見。




4. ロンドンでの再会(たしかに遠くへ来たんだという実感)


最後に、京都芸術センターで出会った好きなアーティストの作品に、ロンドンで再会した話をしたい。


京都芸術センターで鑑賞した展示の中で記憶に強く残っているもののひとつが、2015年に開催された、アン・リスレゴー展 『Shadow Ya Ya』だった。

ノルウェー出身で、コペンハーゲンとニューヨークを拠点に活動しているアーティスト、アン・リスレゴー(Ann Lislegaard)

S.R.ディレイニーの『ダールグレン』やU.K.ル・グィンの『闇の左手』などのSF小説から着想した3Dアニメーションや音響+光のインスタレーショ ンの作品で知られる。

「アン・リスレゴー展 『Shadow Ya Ya』|イベント|京都芸術センター」

私はこの企画展の中でも、映像インスタレーション作品である《Crystal World》(2006)に強く惹かれた。

消灯された教室の展示室の中で、大きな2枚の液晶パネルだけが光を放ち、映像を流している。
片方の画面では、無人の建築が結晶化していく様子を3Dアニメーションで表現した映像が流れており、
今思えば、そしてここまで書いてきたこの記事の中身を読み返すだけでも、
「そういうの好きそうだね」と笑ってしまう。
(作品の文脈はあるにしても)

ともあれ、私はその映像に釘付けになった。
ずっと見ていたい。
そして当時、センターのボランティアスタッフに登録していた私は、その展示室の監視スタッフのボランティアシフトを入れまくったほどだ。

しかし前述の通り、彼女はコペンハーゲンとニューヨークに活動の拠点を置くアーティストであるため、それ以降、日本国内で作品を見ることはなかなか難しかった。



それがその4年後。
2019年、数ヶ月だけ滞在したロンドンで、
偶然にもその滞在期間に彼女の作品が展示される企画展を見つけたのだ。

King’s College of London内にあるScience Gallery Londonにて開催されていた、“ON EDGE: LIVING IN AN AGE OF ANXIETY”展

その中に、《Bellona (after Samuel R. Delany)》(2005)という作品が出展されていた。

《Bellona (after Samuel R. Delany)》(2005)の一部
作品のキャプション

ロンドンからであればコペンハーゲンまで飛行機で行ってもいいな、なんて考えていた矢先に見つけたこの企画展。
その偶然に、本当に驚いた。

京都からずっと遠い場所での再会になったなあ、と思った。
ということはつまり、自分は遠い場所に来ちゃってるということでもある。

どこか遠くへ行きたくて、教室までの短い廊下の途中で寄り道をしていた、あの頃。
大人になって、私はたしかに遠くに行くことができるようになったみたいだ。

そしてそんな変化を実感する足掛かりを、京都芸術センターにもらえたような気がしてならない。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?