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「戦術クラスタ」なる語が浸透する中で戦術君を思い出す

昨今では、サッカーの戦術を掘り下げ、解析しながら楽しむ、いわゆる「戦術クラスタ」と呼ばれる人々が増えてきている。

無論、それは楽しみ方の一つに過ぎず、故に彼らが存在することを頭ごなしに否定されたり、蛇蝎の如く忌み嫌われたり、唾棄されるようなものではない。
ないのだが、中にはアレルギー反応みたいな拒否反応を起こす人もいるようである。

自分などは、「別に自分の意思とは無関係に巻き込んだりしなければ、存在するのは彼らの自由」だと思っていて、それ故に、自分もその輪に加わりたいという意思表示をしないのに、勝手にその輪に自分を巻き込んだりしないでいただきたい、と思っている。あれこれ小難しいことを考えるのは、自分の性に合わない。それは逃避かもしれないが、そう言いたければそれでも別に良い。

俺は俺」なのだから。

まあ、話が脱線したので、そろそろ本筋に。

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ところで、話は違うが、昔、ベガルタ仙台に「戦術君」という通り名で呼ばれたサポーターがいた。

彼はベガルタ仙台が、まだブランメル仙台と呼ばれていた頃からの著名なサポーターの一人であり、その応援スタイルは、90分間、外野の人間には意味のわからない「戦術ボード」なるスケッチブック製のボードを抱えながらも絶え間なく声を出し続けるというもののようだ。この動画ではそのように説明されている。

これは今でこそYouTube版になっているが、当時はShockwave Flash(Adobeが継承する前の話なので、こう呼ぶのが正しいはず)によって作られた動画が話題になった。

この動画でも明かされているように、通称「戦術君」は(今の時点でもそうだし、そもそもこの動画のオリジナルが発表された時点で)物故者である。若くしてこの世を去った。
従って、今、彼に会いたくても、会うこともできないし、彼の掲げる「戦術ボード」の意味や、そこに込められた願いなどを知ることもできない。

従って、以下に記載するようなことも、全くの的外れなのかもしれないが、動画で窺い知る範囲の印象から類推していること、という前提でお読みいただけると有難い。

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彼が、今で言うところのいわゆる「戦術クラスタ」に該当するのかと言われると、疑問には思うが、彼は恐らく、その語を笑い飛ばすんじゃないかな、と思っている。
何故って、彼は「戦術」というものを、最終的には手段だということをわかっていたんだと思うから。
動画の終盤にも出てくる「2+2=4、2×2=4」というあれなんかは、方法がどうであれ、最終的には「4」という解答に結びつけば良いのだ、というような考えに沿っているのではないか。

最近のベガルタ仙台でいえば、前監督である渡邊晋さんの掲げる戦術と、現監督である木山隆之さんが掲げる戦術との間に幾ばくかの相違があったとしても、最終的に目指すものに達することができるなら、それで良いじゃないか、と、「戦術君」ならば考えるのではないだろうか、と思ってしまう。
実際にはどうかはわからない。くどいようだが、あくまでもここでは個人的な印象を述べているだけだ。

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ところで、全く違う話をするが、自分は、ここ最近、いろいろと言われている「戦術」に関して、概ね以下のように考える。

戦術はその試合をやり過ごす手段の一種に過ぎず、特定パターンのそれを汎用性のあるものとして過剰に推奨したり、押し通させるのではなく、時と場合によっては程度の差こそあれ、様々な形でアジャストがあったり変化するべきものだ。もちろん、変化させないという選択肢も含まれて然るべきだ。

何だか、わかったようなわからないような言い方だが、一つの特定の戦術に固執するのではなく、様々なバリエーションがあるものだろうし、それを楽しめるようになるのが、一段高い観戦スキルなのかもしれない。そういう意味で戦術の基本を押さえておくのは一つの見識と言えるだろう。
もっとも、自分にはそういうものを把握する能力が決定的に不足しているために、そんなことはできないし、端からするつもりもない。別に戦術界のメインストリームに鎮座したいとも思わないし。

「ああでもない、こうでもない」と分析的にサッカーを見るのも、それはきっと面白いだろうし、それができると、きっと視野も広くなっていくのだろうから、それ自体は悪いことではない。むしろ、好意的に反応されても良いことだろう。

だが、昨今跋扈している、俗に言う「戦術クラスタ」とされる人たちの中には、自分たちは他の連中とは違う角度からサッカーを見ているぞ、という妙ちきりんなエリート意識というものがあるのではないか、それ故に敬遠されがちなのではないかと考えてしまう。

あの「戦術君」が示す戦術と称するものが記述された多数のボードに込められた真の意味など、彼本人でなければ読み解くことは不可能だが、あれは彼がベガルタ仙台の試合の場に存在していた証、と考えれば良いだけのことだと思う。

仮にそれらが、現在言われているいくつかの概念的なものとは全くそぐわないものだったとしても、それを以て非難することはできない。
あのボードや応援スタイルも含めて彼の楽しみ方なのだから、それで万事はOKなのだ、と思おうじゃないか。

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恐らく、こんな文章でさえも「戦術君」は「あの馬鹿、勝手なことばっかり言いやがって」みたいに思うのかもしれない。自分も書きながらそういう受け止め方になっちゃうだろうな、と思っている。

一面識もない故人をネタに勝手なことばかり書いているのは事実だし。

ただ、昨今、半ば揶揄的に「戦術クラスタ」という語が使われてしまっていることについては、一度立ち止まって考えてみる必要があるんじゃないかと思う。
確かにそう呼ばれる連中にも何某かのあまり好ましく点はあるのかもしれない。例えば、彼らが唱える論に固執するあまり、他の考え方を否定的に捉えたり、排除してしまおうとする面は確かにあるだろう。
ただ、それはそれで、彼らが改善していくべき話に過ぎないだろう。

もしも彼らに、それ以上の重要な問題があるとするならば、彼らの言う戦術論が「紛うことなき絶対的な真理である」という断定的な側面と、それに起因する押しつけがましさにあるんじゃないか、と感じる。
前者が突出しているだけの場合、反対に後者が突出しているだけの場合、あるいは両者が複合的に顔を出している場合、様々にあるかもしれない。

どちらにしても、彼らの言う戦術は特定の局面下に於ける一面の真理ではあっても、普遍的な状況下に於ける絶対的な正解ではない。
「1+1」が「2」で通常の計算通りに収まることもあれば、やり方次第では「3」や「4」にだってなる可能性もある。
現実のプレーって、そういう可能性があるだろうし、あると思いつつ見てみた方が、より面白く見られるんじゃないだろうか。

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何を言ってるのか、自分でもだんだんよくわからなくなってきたが、特定の戦術論が絶対的な真理、ということだけは有り得ず、故にその特定の戦術論を「こんなのもありますよ」ぐらいに紹介する程度なら良いとしても、「いや、これはもう絶対的に正しい」みたいにごり押ししたりするのは、ちょっと勘弁してほしいなあ、と、そんなことを思っていたり。

すっかり「戦術君」とかけ離れた話になってしまったが、実は今でもたまたま思い出して冒頭に紹介した動画を見て、懐かしい気分に浸っている。
同時に、あの動画を見ることで自分への戒めにしたいというか、こんな感じであれたらいいな、というユルい目標みたいなものとしても見ている。

基本的に他人様にどうこう、と偉そうに提示するような文章ではなく、「こいつ、馬鹿でぇ」と軽くお読みいただけるような文章を書き発表することを目指しております。それでもよろしければお願い致します。