見出し画像

ガイナーレ鳥取アンソロジーVolume2(J参入寸前と達成)

前回の記事の続きを書く。例により。登場する人名は敬称略。

2009年

画像1

この年から「強小〇年」と銘打ち始めている。「強小」と銘打ち始めた時期の流れはこの辺でもお読みいただこう。

このシーズン以来、強小はチームの合い言葉みたいなものになった。

画像2

ところで、この人誰だっけ?いや、この年の春先の練習試合のカターレ富山戦@桃スタにいたんだけど、籍を置いてない選手のはず(2009年の外国籍選手はハメドと徐万喜のみ。したがって前年いたアドゥールではないことは確か)なので、全然思い出せない。

画像3

たぶん、若い頃の現強化部長。このシーズンのキャプテンは彼だった。そのリーダーシップは後年、強化部長としても活かされているだろう。

ま、そりゃ置いといて。

画像4

画像5

こういうユニに身を包み、戦闘開始だ。

画像6

何かそう言えば、こういう賑々しいお兄さんがこの1シーズン、やってきたんだっけ。シュナイダー潤之介っての。彼はガイナーレ劇場なる試合後のサポーターとの交流タイム(?)のMCを積極的に引き受けていた。
これは、彼がベガルタ仙台時代にやっていたイベントがきっかけでもあり、それを鳥取に輸入したような形だ。

画像7

当時在籍していたGKの背番号(1=井上敦史、15=シュナイダー自身、21=太田弦貴)を入れて、GK魂なるものを表現する。(FC琉球戦)

画像8

故障でこの時期は出場できないでいた梅田直哉の背番号を書いて激励している。ちなみに彼だけでなく多数の選手が真似ていたが、中には地肌に直接背番号を書いていた選手がいた。2019年以降スタッフとして活動中の誰とは言わないけれども。(MIOびわこ草津戦)

ちなみにシュナイダー潤之介は、このシーズン、BSS山陰放送で放映していたガイナーレ鳥取応援番組「Road to J ガイナーレ劇場」というものにレギュラーMCとして参加すらしていた。
そういう経緯があるので、鳥取退団後に現役として在籍した横浜FCや奈良クラブ、コーチとして在籍したザスパクサツ群馬、あるいは栃木シティFCではどうだか知らないが、頼んだら、それぐらいの盛り上げ役はやってくれるんじゃないだろうか。
ということで、栃木シティの大栗さん、彼に頼んでみては?

そして、このシーズンは途中からだけど、もう1人、この人が加わった。

画像9

自分は2009年の後半戦はちょっと身体にまつわる事情があって(体調を崩して入院とかしてたんで)試合に参加できてない時期や、一応会場には行ってるけど写真は撮ってない時期(最終節のV・ファーレン長崎戦@東山は試合には行ってるけど、あの有名な「東山の約束」も含めて写真は一切撮っていない)があって、したがってこの写真は2010年になってから撮ってるけど、要は、岡野雅行(現・ガイナーレ鳥取取締役ゼネラルマネージャー)が、香港のチームを退団して、加入してきたわけだ。
これには心底驚いた。彼はどんなシナジーを起こすのだろうか、と妙な期待を持ってもいた。

中盤戦以降もたついてしまい、決して楽な道程を辿っていたわけではないチームは、岡野の加入などもあって勢いを得たかに見えたが、最終節の長崎戦は快勝したものの、あと一歩が及ばず、またしてもシーズン5位。

ここで吉野の「東山の約束」が出てくる。口々に慰めの言葉をかけるサポーターに、吉野は気丈にも来季以降への誓いを立てた。この一連の話が「東山の約束」である。このシーズンのシーズンDVDにも収録されているので、ぜひ見られる人は何度でも見返していただきたい。

2010年

画像10

このシーズンはいろんな人がいたよね。尾崎(2)と奥山(25)はこのシーズン以前からいるけど、例えば小針(48)とかね。

画像11

内間(マイクを耳に当ててる人)とか。

画像12

美尾(13)とか喜多(手前の坊主頭)とか。

画像13

あと、ハッキリ写ってる写真がこれしか見当たらないけど服部とか。

あ、そうそう。監督も代わった。前年まで監督をしていたヴィタヤ・ラオハクルは、前年末に母国のタイで交通事故に遭ってしまって、そこからのリハビリに時間を要してしまったので、開幕に間に合わないということで、これはちょっと引き受けがたい、ということでチームと相談した結果、監督の職を辞することになり、この時、身柄が空いていた松田岳夫に監督を頼むことになった。

この監督交代はたまたま偶発的なことから起きたけど、結果的には奏功したと思う。
だってそうだろう。ヴィタヤがいくら日本での指導歴が長いと言っても、ヴィタヤが2007年はともかく、2008年や2009年に結果を残せなかったことを考える時、実際には2010年もクラブとしてはヴィタヤに任せるつもりでいたらしいけど、何処かでアジャストがあっても良かったのではなかろうか。
その意味で、中村有(現・上武大学サッカー部コーチ)を引っ張ってきたのだと思うと考えたりもする。

新生ガイナーレは、このシーズンにはとにかくJリーグ参入をしようと、序盤から飛ばしまくった。前年の主将だった吉野智行がバイスに回り、新加入の服部が主将を務めた。

服部がチームにもたらしたものは大きかったのではないか。岡野もベテランと呼べる年長者ではあったが、服部は岡野からは見えてこないような、彼ならではの安定感があった。岡野がダメなのではない。彼も当然その存在は必要だったが、その岡野をも含めてチームの統制を取れるような説得力が服部にはあったんじゃないか、と思っている。
服部自身、ジュビロ磐田時代に間近でプレーや人となりを見てきたドゥンガの影響が強く、ドゥンガ譲りのキャプテンシーを随所に発揮したのだと思える。やはり服部の存在は大きかった。

服部がビシッとチームを統率するタイプだとするなら、前年途中から加入した岡野はチームの「兄貴」みたいなものだろう。岡野はそのタイプのままにガイナーレ鳥取のゼネラルマネージャーになり、今も活躍している。
恐らく、包容力が服部とはまた違う意味であるのだろう。岡野と服部という二人の年長者の存在は非常に大きかった。

このシーズンは夏場に自分の親父を病で亡くし、夏場はずっと服喪の意味で欠席していた。

復帰したのはここら辺から。

画像14

とりスタにて9499分の1になってきた。人が鈴なりだったことだけは強く印象に残っている。確か、美尾敦がチームの3点目を決めたのだが、この時、自分はゴール裏で目線の上に美尾を見つけた時、彼がそのままシュートしたら面白いのに、と半分冗談で思っていたら、あろうことか美尾は本当にシュートを撃ってしまい、しかもそれはゴールにしっかりと突き刺さってしまったのだ。そんなことって本当にあるんだ・・・と思った。アレはとても印象に残るゴールだった。

画像15

ガイナーレは結局、この試合(アルテ高崎戦)でこのシーズンのJFL4位以内を確定させ・・・

画像16

画像17

画像18

雨の東山で行われた栃木ウーヴァFC戦にてシーズンの優勝をも決めるに至って、文句なしでJリーグへの参入を(少なくとも条件的には)決めた。
この年の11月末に行われたJリーグ理事会で、ガイナーレ鳥取のJリーグ参入が正式に承認された。

それを受けて12月頭にはJリーグ参入記念試合が、東山で行われている。

画像19

ガイナーレ鳥取と阪南大学のはこれは練習試合か何かの位置づけなんだろうかね。

画像20

よく覚えてない。

画像21

画像22

見てると、緑がチーム尾形、白がチーム野口らしい。尾形、野口の両氏ともSC鳥取時代からチームに縁の深い人物であり、特に尾形は役員の1人に名を連ねているはずで米子で試合がある時にはよく顔を見るし、野口は現在もスタッフの1人である。

画像23

塚野社長がこういう姿で出てくるのは、SC鳥取時代以来じゃなかったかな。しかも、このユニは着たことないでしょ、この人。このユニになる前に現役を退いてるはずだし。

画像24

この人は、FM山陰のアナウンサーでもある稲田茂という方。SC鳥取時代はスタジアムナビゲーターをやってくださった人だ。この人は後に中国リーグ期の松江シティFCのスタジアムナビゲートもしていた時期がある。現在は局の仕事に専念されてるみたいだ。

画像25

この頃は湘南ベルマーレからの自称レンタル移籍で三村ロンド(場合によっては田子千尋も)がスタジアムナビゲートに来ていたが、彼らは本来湘南ベルマーレの担当人物(田子は現在は違う模様)であり、カテゴリが同じに担ってしまうと兼任はできない。したがって、三村と田子はこの年までの担当となってしまった。三村は現在でも湘南ベルマーレのスタジアムナビゲートを忙しい仕事の合間を縫いながら務めている。

彼らを含め、スタジアムナビゲートについては、この次の平野智一、現在の高地真吾まで、個性的な面々が揃っているのだが、まあそれは追々お話しできれば良いだろう。

ともあれ、ガイナーレ鳥取はJ2リーグに籍を置くことになった。

画像26

SC鳥取期にはこういうものを作ったりもした。

画像27

画像28

そんなチームにもJリーグという手段を使うことの萌芽が徐々に意識され始めて行った。それが形になったのが、こうしたステッカーや小旗であり、そこにグラフィカルに示された言葉で、概念としての「強小」が表されるようになって、数年後にはハッキリと「強小」という言葉を打ち出すまでになっていった。

画像29

翌2011年から、ガイナーレ鳥取はJリーグの舞台に踏み出していく。順風満帆とは言い難く、苦難も多々あった。今も苦難の道の中かも知れない。だがしかし、そんな渦中にありながらも、ガイナーレ鳥取は上のカテゴリを目指している。その先にある、多幸感や達成感を鳥取県民と共有し合うことで、有益な財産としていくためにも。
その一環として、後年始めていくことになる芝生事業があったりするわけだが、その辺りはこの先のお話だ。

ここでは、ともあれ、JFLを飛び出すことができ、Jリーグという大海原に漕ぎ出したところまでを振り返った。Jリーグに加盟していることを、ガイナーレ鳥取はどんな風に活かせるだろうか?


この記事が参加している募集

私のイチオシ

基本的に他人様にどうこう、と偉そうに提示するような文章ではなく、「こいつ、馬鹿でぇ」と軽くお読みいただけるような文章を書き発表することを目指しております。それでもよろしければお願い致します。