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22年前に、とある田舎のイモ兄ちゃんが、大阪にローリング・ストーンズのコンサートを観に行った話

昨夜寝る前から、このネタを書きたいなと思っていて、先ずは書くにあたって、タイトルをどうしようと思ったのだが、結局こういう長ったらしくダサいタイトルにしか辿り着かなかったので、そこは我慢していただきたい。
俺にだって語彙力とかあれば、こんなタイトルになどしない。もっと小洒落たタイトルにでもする。だができなかった。それが俺の現状だ。

まあ、それはいい。

今から22年前の1998年の3月21日、島根県の田舎で会社勤めをしながら何となく毎日を燻り続けていた俺は、一念発起をした挙げ句に大阪にいた。今で言う京セラドーム大阪。その頃は単純に大阪ドームと呼ばれていた。野球場として非常に有名なクッソデカい建物だと思ったが、中に入ると意外にそうでもない。
俺はその大阪ドームに、当時はまだ存在していた近鉄バファローズの試合を観に行ったのか、というと、そんなことはしない。
俺がその日、大阪ドームに行ったのは、本来の大阪ドームの使用目的であるところの野球と全く無関係に、ローリング・ストーンズのコンサートを観るためのことだった。

今更ここでローリング・ストーンズがどういうグループで、どういう業績を築いてきたかなどとはいちいち列挙しない。
正直言えば、知りたかったなら「ググれカス」だ。それでカタをつけてもいいぐらい有名なグループで、活動歴も死ぬほど長い。それほどこのグループを語り尽くした文献や資料はWebのそこら中に多数転がっている。文献だけではない。映像資料も多いし、音源も公式非公式問わず死ぬほど多数転がっている。
もはや世界中の多くの人々が、その名前ぐらいは聞いたことがある程度にはメジャーだと思うし、その意味では世界に冠たる音楽グループだと思うが、要は、俺よりは二回り上の年代層のおっさんたちである。
今現在だとドラマーのチャーリー・ワッツに至っては80歳から数えた方が近い。ミック・ジャガーやキース・リチャーズも既に70代の半ばぐらいのはずだし、最年少のロン・ウッドだってもう70歳は回っている。このコンサートの頃には離籍していたけれど、元々のベーシストだったビル・ワイマンなんて、もうとっくに80代に突入している。

彼らの古参のファン(いや俺だって十分に古参と言って良いような年齢だし聴いてるキャリアだが、それはそれとして)はどう思うかはさておき、今はもう既に、連中のことは、むしろ「ジジイ」と言ってしまった方が通りは良いだろう。
もしも、彼らに脂が乗りきっていた頃の70年代とかにコンサートを観ていたら、また別な精神状態が生じるのかもしれないが、この頃の彼らは既に相当な年齢になり、経験も重ねて、巨大な存在になっていた。

そんなローリング・ストーンズのコンサートを観に行けることになった。何度も言うが、今から22年前の話だ。

これからその顛末をお話しする。但し、何分四半世紀近く前のことなので、忘れていることもあれば、細かいことは記憶違いもあるだろうし、自分にも内容を保証するような自信はない。
あくまでも、概ねこんな感じだった、とご理解いただくと幸いだ。

1:きっかけは新聞に載っていた広告

1998年当時に俺がいた会社は、新聞の取り方が変わっていて、日経は通年取っているけれど、月ごとに一般紙は取る新聞を変えていた。順番はよく覚えてないが、讀賣→毎日→朝日→産経かどうか、そういう順番だったような気がするがもう忘れた。

その時にその広告を見たのは、確か産経新聞だったはずだ。そこに、ローリング・ストーンズが大阪で公演を行う旨の広告(たぶん大手のプレイガイドのそれだと思う。当時だとUとか)が載っていたのを見たんだと思う。
普段そんなことには滅多に食指を動かさない俺なのだけど、この時だけは別だった。
あのローリング・ストーンズが大阪に来る、これは観に行かないと!」と半ば直感的にそうなってしまった。どうしてそう思ってしまったのか、今でもよくわかっていない。たぶん、これを逃したら、二度とチャンスはないかもしれないとでも思ったのだろう。

そして、チケットの発売日に記載の電話番号に電話をした。こういうのはなかなかつながらないことが多いと予想していたが、この時は比較的すんなりつながったような記憶がある。
そして、この通話で所定の手続きを行い、無事にチケット購入の段取りがついた。思ったよりもすんなりと。

この後、チケット代を振り込み、引き換えにチケットを送って来た。こうして無事にその日、大阪に行くことも決まった。次はその手段をどうするかだったが、これも思いの外、すぐに決まった。

2:大阪ドームまでの往路

この頃、出雲市と大阪を結んで、これを書いている2020年5月8日時点では存在しない、こういう列車が走っていた。

急行「だいせん」である。この頃に走っていた編成は14系寝台車と12系座席車の混成で、後にキハ65系のいわゆるエーデル型気動車になって、寝台車がなくなった。
出雲市と大阪を結んではいるが、急行列車になるのは倉吉から東で、出雲市~倉吉の間は快速列車である。そんなわけで、行きも帰りもこれを使うことになった。やくもで岡山に出て、新幹線で新大阪に行くのもありだと思うけど、何だか「だいせん」に乗りたかった。
実を言えば、この約10年ほど前に下りの「だいせん」には乗っている。但しこの時は京都から山陰線の普通列車に乗ったので、始発の大阪から乗車したのではなく、途中の福知山か何処かからの乗り換えで乗っている。だから上下を問わず全区間乗るのは初めてのことだ。
と言っても、基本的に夜行列車なので、車窓の風景を楽しむ列車ではない。乗ったら、耐久するための列車だ。しかも、確かこの時、寝台車は知らないが、座席車の減光はなかったような気がする。
この列車は先にも言ったように、出雲市~倉吉間は快速列車である。今これに近い感じで運転されている列車は、鳥取を夕方に出て、出雲市に19時ぐらいに着いた折り返しで、鳥取に23時前に着くような感じで帰っていく「とっとりライナー」という快速列車があるが、これの折り返しに近い感じか。

ともあれ、1998年3月20日夜。俺は出雲市駅にいた。もちろん「だいせん」に乗って大阪に行くためだ。ライブのチケットも持ったし列車の乗車に必要な乗車券と急行券も持った。
だが時間の配分を少々ミスったので、乗車前に飲み食いできるものをほぼ買わなかった。
まあ、途中であっちこっちに止まるので、その時を利用して自動販売機で飲み物でも買えば良いのだが。
それに朝方に大阪に着くので、着いてから朝飯にありついたら良い。そんな風に思った。

列車種別が倉吉から急行になるのだが、別にそんな変更の案内があるわけでもなく、何か種別変更で感慨が生まれるわけでもなく、実に淡々と列車種別は変更されていた。
俺は座席車の方に乗ったので、横になることはなかったが、別に座席でも寝られた。そりゃ、張り込んで寝台車にでも乗れたら一番良かったけどね。

ともあれ、3月21日の朝7時頃、大阪に着いた。梅田近辺をぶらついて時間を潰した後、朝食にありついた。もう何を食ったのかはいちいち覚えていないし、そんな情報はどうでも良い。
そして、阪神百貨店でしばし時間を潰してから、大阪環状線に乗って1周半はした。東京に行って何の目的もなく山手線に乗車してボーッとしているようなものだ。
結局、天王寺で降りて時間を潰した(たぶんこの際に昼飯を食べているが、何を食ったかはもちろん覚えていない)後に、一旦大阪に戻って(この際のルートが西九条経由だったか、京橋経由だったかは覚えていない)、少ししてから大正(大阪ドームの最寄り駅)に向かった。
大正に降りると、大阪ドームを目指して歩いた。今は阪神なんば線なんてものが存在し、ドーム前駅とかいうものもあるが、当時はそんなものはなかった。大阪の地下鉄のドーム前千代崎という駅はこの頃にはあったと思うけれども、そんな路線を使うような思いがなかった。
まあ、歩くことそのものは当時もあんまり苦ではなかったから、楽しんで歩いていたけどね。

そうこうするうちに14時ぐらいに大阪ドームに着いた。

3:大阪ドームってとこ

ご存知のように今で言う京セラドーム大阪は野球場(正しくは野球をはじめとした多目的イベントホール。主として野球の開催がラインアップされるという認識でいれば良い)である。
その野球場(というか何というか)に野球以外の目的でやってくる人間もそうそういないだろう、たぶん。
いや、アイドルのコンサートなどを観に来る人はいるかもしれない。だが、今はここではコンサート自体は行われているみたいだが、いろいろと難しくなっているみたいだ。

何故か。よく言われているのが、ここ京セラドーム大阪では観客のジャンプができない。

これは特に明確化された観覧規程が見当たらなかったが、確かにそういう規程というか規制は存在するらしい。条例か何かの規程なのだろうか。たぶんそうだろうと思うが、よくはわからない。
ローリング・ストーンズの場合、そんな(開演中にジャンプをしながらコンサートを楽しむような)観客はそもそもいない、というより、そんな観客参加型イベントのようなものがそもそもないと思うが、それでも基本的には好ましくないのだろう。あくまでも、このコンサートの当時はまだしも、現在の基準では、だが。

まあ、あと、これは退場時の話だが、区画ごとに順番を決めて退場させるという退場規程が存在するみたいだ。

特にアナウンスもなくこれを受けた印象としては、別に違和感はなかったと思うし、これのおかげで混乱もなくすんなり退場できたという印象だったので、自分としてはこれは良い規制だったと思っている。

まあ、ジャンプの件はともかく、退場順番などの予備知識をろくすっぽ仕入れずに大阪ドームに行ったわけで、気楽と言えば気楽だったが、それもまた良し。変に身構えていくよりはよほどマシだったと言える。

ともかく当地に着いたが、ここでこれから何があるのかを知ってる人たちぐらいしかいなかったのではないかな。
ストーンズ目当てに訪れた俺みたいな観客、売店や大阪ドーム・主催側のスタッフたち、そしてこの種のイベントにはつきものと言っても過言ではない私設プレイガイド(いわゆるダフ屋)・・・などなど。
ちなみに俺はダフ屋の世話になどなっていないし、洗礼も受けていない。そもそもチケットは持ってるし、忘れてきてもいない。今はともかく、この頃はチケットを忘れるようなドジはしない。

ともあれ、俺は開場の列に並んで、真っ先にスタンドの中に入った。そこで軽く遅めの昼食(とも呼べないものだったが)を食い、少し眠り、起きたら17時ぐらいだった。

ちなみに、スタンドに入る前には売店にも寄っており・・・

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ツアーのブックレットと、その後15年程度着たベロマークのTシャツ。「行った、行った」と連呼している程度ではなく、一応、当地で仕入れたものぐらいは見せておきたいもの。このパンフはそこまで劣化もしてないので、こうやって公開できたりする。

さて、俺が陣取ったのはどこら辺かな。

あくまでも自分なりの推測(チケットの半券とかもうなくしたし)だが、1ゲート側の18列~31列ぐらいの160番~280番辺りではなかっただろうか。よくは覚えていないけど、たぶんその辺。一番安い席を買ったのでメンバーの姿は豆粒程度にしか見えなかったが、ステージは見渡せたので、位置的にはまずまずだと思う。

17時ちょい過ぎの段階で、大凡の客入りは5割から6割程度だったように印象がある。まだ会場のテンションもそこまでのものではなかった。それでも時間の経過とともに次第に席が埋まり始めると、テンションも高まっていったし、自分も少しずつアドレナリンのようなものが噴き出してくるのがわかったように思う。

ローリング・ストーンズは遠きに在りて思うもの、では、次第になくなってきていた。弥が上にも期待が高まる。
チケットをふと見ると、開演予定時刻が18時とあったが、ふと時計を見てみると、もう18時になったのに、開演しない。外タレのライブは時折ディレイがある、というのは本当のことだ。
まだストーンズはマシな方で、ガンズ・アンド・ローゼズ(の全盛期。今は知らんぞ)だったら、平気で何時間も開始を遅らせてしまうだろうしな。
日本にもそういうバンドがいるじゃないか。昔、某バラエティ番組に出演して名前を売ったことで知られ、ドラマーがひときわ繊細なことで知られる某バンドが、テレビ中継のあったコンサートの開始を遅らせた一件が。
そういうのに比べたら、ストーンズのディレイなんて可愛いもんだ。むしろそれすらも盛り上げ要素みたいなもの。

そうこうするうちに、およそ18時25分(正確な時間は覚えておらず、あくまでもそんなものだろう、程度の認識だ)頃に、会場内が暗転した。開演前にひっきりなしに鳴っていた音楽が、アフロ的なリズムのそれに変化し、弥が上にも期待が高まる。

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このツアーでのステージセットは、だいたいこんな感じ。センターのベロマークの部分はデカい円形のモニターになっている。
彼らの後に同じ大阪ドームでコンサートをやったU2が、これとほぼ同じようなセットを組んでいたので、当時流行っていた演出なのだろう。

ストーンズの場合、この他に延伸する通路があり、センターステージがあった。ここでも数曲やることになるが、ま、今はそれは良い。

中央のデカい円形モニターに奇妙な映像が映し出されていたが、リズム音が消えて、モニターも一瞬暗転した後、ステージ中央に跪きながら「(I can't get no)Satisfaction」のお馴染みのギターリフを鳴らし始めるキース・リチャーズ。

さあ、ショウの始まり(on with the show)だ。

4:セットリスト

当日のセットリストを以下に示す。

(I can't get no)Satisfaction
Let's spend the night together
Flip the switch
Gimme shelter
(/w Lisa Fisher)
Angie
You got me rocking
Saint of me
Out of control
Under my thumb
(by request)
Miss you
Thief in the night
(keef)
Wanna hold you (keef)
Little queenie (Center Stage)
I just want to make love to you (Center Stage)
Like a rolling stone (Center Stage)
Sympathy for the Devil
Tumbling dice
Honky tonk women
Start me up
Jumpin' jack flash
You can't always get what you want
(Encore)
Brown sugar (Encore)

5:始まった

冒頭の「サティスファクション」のギターリフで俺は間違いなく、キング・クリムゾンが言うところのスキッツォイドマンになってしまった
語弊があるとか、そんなことはなく、あの時、少なくとも全曲終わるまでは正常な精神状態ではなかった。ハッキリ申し上げて、ああいうのをスキッツォイドマン(かなり穏当に言い換えているが、正直言えば「基地外」だからね)になったと言うべきだと思った。
アドレナリンが噴き出しまくっていた。今にして思えばあれはそういう状態だったに違いない。周りの客には申し訳のないことをしてしまったが、なまじ多くの曲を知っていたから、ハジケまくった。
後年、サッカーの応援中にこういう、説明のつかないような、且つ容易に制御のできないような高揚感を味わうことになるのだが、この時はたぶん初めてそういうのを経験したと思う。

キースの出が格好良すぎてやられた、というのもある。ステージの中央付近に跪き、おもむろに「サティスファクション」を演奏し始める。あれを生で見たら、もうダメだ。一気に興奮のるつぼに叩き込まれる。

この曲に次いで「夜をぶっとばせ」を演奏されたので、自分的にはこの時点でもうアドレナリンがダダ漏れ状態になってしまった。好きな、というかガキの頃にストーンズに惚れたきっかけになった曲を立て続けに当人たちの手で演奏されてごらんなさい。どうにかなるよ、普通は。

それにしても、この時にしても、ミック・ジャガーは何故あんなに元気なのだろう。親父さんが体育教師で、その影響からかある時期から急に健康に留意し始め、今やミックは健康オタクと言っても良いのだが、(そのわりに心臓手術とか最近している)何があそこまで彼を健康に駆り立てるのか。ともあれ、そのせいなのか何なのか、とにかく動きが若々しい。50代のあの頃でもそう思っていたのだから、最近でもそうなのだろう。ともあれ、あんな70代はいない。若者を喰ってエネルギーにしている妖怪みたいな人だ。

続く『ブリッジズ・トゥ・バビロン』収録曲でもある「フリップ・ザ・スウィッチ」は、スタジオテイクよりは幾分BPMを落とした演奏をしていたが、グルーヴ感は損なわれておらず、生きている。

続いて「ギミー・シェルター」だ。元々のパートナーだったメリー・クレイトンから始まり、いろんな人がミックとパートナーを組んでいる(近年ではレディー・ガガとのタッグが秀逸であった)が、リサ・フィッシャーは長年コンビを組んでいるだけに、安定度が段違いだ。

この「ギミー・シェルター」が済んでメンバー紹介タイムなのだが、ここでミックがロニーを評していった一言が「基地外」だったりするから、笑ってしまうというか。誰だよ、ミックにそんなドイヒーなワードを教えたのは。止めなさいよ。

メンバー紹介タイムの後は曲に戻って「アンジー」から。ちょいとテンポの緩い曲を個々に持ってくる辺りの緩急の付け方はさすがだ。

この後、少し新しめの曲が続く。前作『ブードゥー・ラウンジ』収録の「ユー・ガット・ミー・ロッキング」、そして『ブリッジズ・トゥ・バビロン』に収録の「セイント・オブ・ミー」と「アウト・オブ・コントロール」を続けてくる。ツアーによってはキースのコーナーに「ユー・ドント・ハブ・ミーン・イット」なんてのも付け加えるのだろうが、今回は後述のように別の曲を加えた。

6:リクエストタイムから中盤戦のセンターステージまで

続いてリクエストタイム。この趣向って、たぶんこのツアーから始まったんじゃないかな。
2コ前の『スティール・ホィールズ/アーバン・ジャングル・ツアー』の時はこんなのしてなかったと思うし、1コ前の『ヴードゥー・ラウンジ・ツアー』の時だってたぶんやっていなかった。たぶんそうなのだろう。

最近のストーンズのツアーだと、4曲ぐらいの候補曲を先に出しといて、その中から演奏してほしい曲を選ぶ、というスタイルだが、この時はもっと範囲が広く、大正は全ての曲だったりする。
ということは、場合によっては「Sing this all together(see what happens)」みたいなものが選ばれる可能性だってないわけではないが、そんな曲を選ぶ酔狂なヤツもいないだろう。もちろん、ここでもそんなものは選ばれていない。
ここで選ばれたのは「アンダー・マイ・サム」だ。

たぶん大阪での演奏は、この演奏にフィーリングが近かったのではないだろうか。よくは覚えていないが、恐らくそうなのだろう。

これは上のに最もフィーリングが近いだろうけど、どうなのか。

この『スティル・ライフ』の頃のアレンジとも違ったような記憶は何となくあるけど、よく覚えてないや。
何しろエキストラでやってる曲だから、常時やってるわけでもないんだろうし、そんな事情もあって、このツアーでのライブテイクを聴いたことがないんだよな。

続いて「ミス・ユー」だが、これもリサ込みだったかもしれない。『スティール・ウィールズ/アーバン・ジャングル』の時は既にそうだったから、ここでもそうだったんだろう。

ここでミックが休憩を取る時間。つまりキースが歌う時間だが、キースはこの新作から「シーフ・イン・ザ・ナイト」という超大作のバラードナンバーを用意してきた上に、おまけにこちらを用意してきた。

このツアーでは時々ステージにかけてたらしいけど、しかしまさかこいつを演奏するとは思わなかった。ステージで聴きたい曲だとは常々思っていたけどさ。これをやられたのが、この公演での最大のサプライズだった。

で、キースのコーナーが済むと、演奏が一旦止んで、メンバーがステージ中央に設えられた『BRIDGES TO BABYLON』を渡って、センターステージに行くという仕掛けが待っている。
このブリッジが徐々に延びていく瞬間、随分とワクワクしたもんだよ。で、そこをおっさんらは余裕ぶっこいて渡っていくんだけども、まあ、その様子の小憎らしいことったらなかったね(一応、褒めてるつもり)。

で、そんなセンターステージでやったのが、いきなり「リトル・クイニー」だったりするから、笑うというか。何でそれやねん、という。

その次にこれをやられた。

MCでミック・ジャガーが誰から聞いたのか「大阪はブルーズの街だから」とか何とか言ったらしいんだが、その意を酌んでこういう曲をやり始めるんだから、「何だよこのおっさんどもは、ここ(大阪ドーム)にいる連中を完膚なきまでにノックアウトする気かよ?」とでも思いたくなった。
しかもだよ。それを若い頃にやった時みたいに勢い込んでガガーッと演奏するわけじゃなくて、原曲に近いテンポとアレンジで余裕ぶっこいて演奏するんだぜ。
あの歳で、こういう引き出しを普通に持ってるところが怖いよ。なんだ、このブルーズ親父たちは。
ある意味、これが最大のハイライトナンバーだったと思う。数多ある彼らのヒット曲などでなく、このクッソシブいブルーズナンバーこそが、このコンサートの最大の目玉だった。

これが済むと、『ヴードゥー・ラウンジ・ツアー』で演奏して『ストリップト』に収録されて話題になってもいたボブ・ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」をやっていた。この時点で既に破裂しそうなぐらい喰った印象すらあるが、まだステージは終わらない。

7:大団円へ

元々のステージに戻って、残りの曲を畳みかける。「悪魔を憐れむ歌」がその幕開けである。少なくとも『スティール・ウィールズ/アーバン・ジャングル・ツアー』以降、禍々しいアレンジが影を潜め、洒落た感じのアレンジになり始めた印象がある。時代の変化に応じてのことだろう。

続く「ダイスをころがせ」「ホンキー・トンク・ウィメン」は、現代的なサザンロック、とでも言うべきアレンジに落ち着いていたし、この辺りはもうすっかり手練れの演奏、というイメージですらあった。

で、「スタート・ミー・アップ」は、80年代以降の定番曲なのだが、こういうのはもはや当たり前にこなされているだけに、何も違和感がないような演奏ぶりに安堵感すら覚える。

そして本編のクロージングは「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」だ。これは、ご存知の人も多かろうが、少し前に木村拓哉が主演していた月9ドラマの主題歌にさえなった。
それまでにもフジテレビは、このコンサートの前半でもやっていた「アンジー」を別のドラマの主題歌にしたことがあるのだが、よりによってこれだものな。木村に払うギャラよりもそっちの使用料の方が断然高いんじゃないかとさえ思うのだが、実際どうなのだろう?

で、この曲が終わって一度メンバーは引っ込むが、このまま終わったりするわけもなく、アンコールが始まる。その最初が「無情の世界」である。

コール&レスポンスが出てくるが、これも当然やった。楽しかった。これをアンコールに持ってくる演出が憎いわ。

そしてホントのホントに最後の曲となったのは、ご存知、定番中の定番曲である「ブラウン・シュガー」しかなかった。
あまりにも有名なこの曲を聴いていると、まだまだこの雰囲気を失いたくはないな、と思う一方、でもこれでおしまいなのかな、という妙な気持ちが交差してきて、何とも言えない気持ちになった。

だが、ミックは最後に別れの挨拶をした。ま、そうだよなあ。とにかくコンサートは大団円を迎えた。

終わって、場内の照明がついた。一気に現実に引き戻された印象すらある。でも、夢は覚めた。今は現実だ。決して安くないカネを出し、俺は大阪の地まで足を運んで、ローリング・ストーンズが監修した2時間近くもある筆舌に尽くし難いような楽しい夢を見た。結局のところ、それが全てだった。
そして、俺はそのことに強く満足したし、何も思い残すことはないとさえ思ったほどだった。待望し続けていたものを。こういう形で目にすることができた満足感や幸福感は、イージーに言葉にできるものではない。できてたまるものか。

8:コンサートがはねて

正直、半ば夢うつつのような気分で大阪ドームを後にした。最初の方にも言ったように整理退場にはストレスなど感じなかった。感覚が麻痺していたのかもしれない。
それで、大正の駅から大阪駅にどうやって帰ったのかをよく覚えていない。たぶん、環状線を京橋経由で帰ったと思う。西九条経由ではなかったような気がする。

ともあれ、大阪駅から、急行「だいせん」の座席車に乗った。

今にして思うのは、この感覚は応援しているサッカーのチーム、例えばガイナーレ鳥取が、試合に快勝して、高揚した気分のまま帰路につく時に何となく似た感じがある、ということ。
サッカーの勝ち試合やローリング・ストーンズの圧倒的なコンサートという充実した状態が終わり、自分も大満足な心境に包まれている中で、早く家に帰って、慣れ親しんだ環境下でその余韻を反芻しまくりたい。
このイメージに近いと言える。

たぶん、出雲市に着くまでの間、自分はあまりろくに寝ていない可能性がある。気分がやたらに昂揚していたせいかもしれない。
翌日の3月22日が日曜日で本当に良かった。その日はグダグダ過ごせたわけだし。

とまあ、22年前の話を今頃思い出してみたわけだが、どんなもんだっただろう?
えっ、スカスカでつまらん?
そこを君の想像力で補え。俺に文章力が無いのは至極当然のことじゃなのだから。まあ、でも、たまたま自分が記録に残していたからある程度は思い出せたわけだけどね。普通なら、こんなの思い出せるはずもないよ。
ってなわけで、今回のはかなり疲れた。わりかし長編になったし。でも、今にもある程度通じる面のある話だったと思うし、こういう心情だけはなるべくなくさないようにしていきたいものだね。
あと、やっぱりさ、好きなものはできるだけ自分が思った通りに好きなままでいたいもの。他人に迷惑とかをかけない範囲内で、そして他人に必要以上に押しつけたりしないで。他人の好みは尊重しつつ
その辺りだけはこれからも気をつけながら、好きなものを楽しみたい。

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