
【エッセイ】最近考えたこと(文章と会話篇)
文章と思考
文章表現というのはおおよそ、文法などではなく言葉選びに尽きる。基本的な文法さえ使いこなせれば、文章のうまい下手というところでの争いはなく、あとは基本的に装飾性になる。ビジネスやアカデミアデアは、装飾性に加えて論理的なエビデンスとの連関性が求められる。
文章を書くことというのは麻薬のような感覚に近い。書くなといわれても書いてしまう。けれども、かなしいかな、後からその文章に対して、自分自身が質を求めてしまうのだ。書きたいといって書いたくせに後からレビューして質を判定するなど、まさに自己矛盾の表れだ。
走るときと座って書く時でやはりロジックの強度は大きく異なる。姿勢や、態度によって言語中枢に与える刺激が異なるのかもしれない。ある意味、テキストに使い分けができることはメリットの一つであり、思考を分散させたくないときはかえってデメリットになるだろう。
論理的な文章というのは、論理という対外的枠組みに支配されて文章を書くことになるため、その文章を書くときというのは他の文章と異なり、基本的には自由はなく支配されている。しかし、その論理にある程度の知識があれば、その論理の中で自由に文章を書くことができる。
多動性批判
多動的な行為というのは、基本的に資産家の行為である。ここでいう資産家というのは広義の資産家であり、ナレッジ、人脈、貨幣いずれかの財について、ある程度対外規模と比較して相対値が高いものを示す。多動性というのは基本的に、あるプロセスの前後で必要であり、あるプロジェクトが動いている際には多動的にはなってはならない。
会話と内省
会話というのは初めから事後的内省が含まれている。行動そのものがある種の罪であり、行動自体が自身の世界の秩序の崩壊、世界と他者の世界の接触に他ならない。
内省は全ての行動に対してあらかじめ自明として存在するものである。
集団における最大公約数をとる会話というのは、使用言語はもちろん制約を受ける一方で、言語構造も制約を受ける。構造というのはいわゆる集団におけるコミュニケーションの作法のようなものであり、形式的な会話の根幹をなすものである。これは機能語の一種で、すべての個人の意思にもとづいた情緒的な表現を排除する。
集団的なコミュニティは形式的な言葉をいかに使いことなし、的確に素早く展開することができるかということを要求しており、これには一定程度形式な会話でのパターンのアウトプットトレーニングが必要になる。この能力の高低によって、その会話における役割や個人の機能が変わってくる。
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