見出し画像

哀しい半無神論者を想う話。

(これは2017年春に上演された戸塚さんと勝村さんのストレートプレイ版のDefiledを何回か観ていた人が書きなぐった感想と記録です。作品そのものに関する細かい説明とかは無いです。2020ver.のネタバレへの配慮とかも無い)



わたしが観たDefiledは果たして"ユニーク"であったか?


STAGE GATE VRシアター 
『Defiled-ディファイルド-』(リーディングスタイル)
DDD青山クロスシアター
7月2日 18:30
宮崎 中村 ペア
https://stagegate-vr.jp/


3月18日ぶりに劇場に足を運んで、3年前に頭をぐるぐると巡らせていた作品の朗読劇を観た。

しゅうとくんのハリーが観たかった。きっとわたしの中のハリーと似た印象のハリーが観られるんじゃないかと思ったから。しゅうとくんのハリーを観てよかった。それなりに年齢を重ねているはずなのにどこか幼くて駄々をこねているように思えるハリーがそこにはいたから。(ハリーは設定としては30代後半くらいだろうに割りと若い年齢の役者が宛てられているのは面白いなと思う)

3年前に思考を巡らせたハリーの姿が蘇って、懐かしくて、けれどしゅうとくん自身のお芝居が素敵だと思える台詞回しや表情も沢山あって楽しかった。

中村さんのブライアンもとてもよかった。ベテランさが滲み出る、人がよさそうだけど、少し融通の利かなさそうな渋めの男性。

舞台上にあったのは、黒い背表紙の本が詰められ壁面に沿うように並ぶ本棚、本棚の至るところに設置された爆弾、舞台中央奥にカード目録がしまわれた棚、下手にいい造りの机とその上にある少し古い型のパソコン、上手に先のものよりは少し小ぶりの机、それぞれの机の上にデザインが異なるガラス製の綺麗な水差し、そして机に据えられた二脚の椅子。

上手の机と椅子以外は殆どが2017年のものと同じ装置で劇場に入った瞬間に泣きたくなったのは少し笑う話。(何なら使われていた音楽も同じで泣きたくなった話も同様)

あとはVR配信のための撮影用の機器がデカデカと鎮座していた。少し異様で面白かった。

2017年に上演された際の上演時間は1時間半強だったと思うが、今回は上演前のアナウンスでは「70分」だと伝えられた。実際の上演時間もそれくらいだった。

なのでわたしの知っているDefiledからは幾つかのピースが欠けたものになるのだろうなということは開演前から何となく感じ取っていた。

そして、『リーディングスタイル』と謳われている通り終始2人は椅子に座ったまま芝居は進み、立ち上がることはなかった。

ハリーとブライアンの会話のみで繰り広げられる、語り部は居ない。身体の動作所作は一切言葉では語られない。視界から得ることの出来る情報は2人の表情、そして水差しから水を飲む姿だけである。2人の間で行われるやりとり、それぞれの行動をそれだけで感じ取らなければならない。朗読劇だもの、それはそう。

だから終演後に恋しい思ったものがポロポロと記憶の中から溢れてきた。

ブライアンの奥さんのコーヒーが入った赤い水筒が恋しい。
『ハーディ兄弟 西へ行く』のカード目録を数秒で探し出して喜ぶブライアンと、パソコンを上手く扱えず全然『ハーディ兄弟 西へ行く』へ辿り着けないブライアンのおじさんくさい愛らしさが恋しい。
恋しくもなかった白々しいメリンダとのやりとりが恋しい。
拳銃をめぐったりする2人の緊張感とどたばたさが恋しい。
小さな家でコリーを飼っているハリーが恋しい。

そう、ハリーがコリーを飼っていないのだ。
そればかりは、どうしても少し納得のいかない点だった。

ハリーが実際にコリーを飼っていないかは正直定かではない、ただ台詞から読み取れなかった。わたしが聴き逃したのだろうか、そうだったらいいのにと願う。

原作のDefiledには『the Convenience of a Short-Haired Dog』というフレーズが副題としてつけられている。
「毛の短い犬の便宜性」、作中でひとつの重点をおかれる「便宜性」の例えとして上げられる幼い頃のハリーの因縁だ。幼いハリーは父親にコリーを飼いたいと強請るが、父親は「コリーは大きすぎるし毛が長すぎて実用性がない、小さくて毛の短い犬にしよう、小さい犬は知らない人にもよく吠えるから」とハリーの望んでいない"便利"な小型犬を買ってくる。その反動か現在のハリーは住まいの小さな部屋で大きなコリーを飼っている、「全然便利じゃない」3年前の彼はそう笑っていた。

その他にもカットされた部分はいくつかあったのだが、原作で副題になるほどの要素を何故チョイスしたのだろうか。そればかりがぼんやりと頭の中で整理がつかない。それともカットされた部分に何か共通点があっただろうか。3年前の記憶と1度の観劇の記憶を擦り合わせるのは少し難しい。

様々なものが画一化されること、便宜性、利便性が重要視され、テクノロジーによって便利になることを忌み嫌い、"古きよき"カード目録とそれに纏わるものごと、経験、"神聖"なものを護るために爆弾を抱え込んで図書館に立てこもるハリー・メンデルソン。

年々インターネットが身近になり、更にはリモートワークたるものが重宝、促進され急速に普及していく今の世の中で観るハリーの姿は、3年前に観た頃よりもずっと複雑な感情を胸に残した。

ハリーは図書館中に仕掛けた爆弾を遠隔操作して爆破することが出来る。彼が劇中で反発心を抱くテクノロジーに頼って、彼はボタンひとつで彼の神聖なるカード目録と図書館を消し去ることが出来る。劇中で落ち着かない様子で手元でスイッチを遊ばせていた姿を思い出して懐かしくなる。

2017年再演時に観た最後の演出はこうだった。(記憶が違っていたら申し訳ない)

ブライアンの意思に沿って図書館の外へ出て行くかと思われるハリー、しかしそんなことは無くブライアンを館外へ締め出し再び立てこもるハリー、扉を叩き「どうしたんだハリー」と叫ぶブライアン、静かに室内を歩くハリー、机上の電話が鳴り「何故駄目なのか」と問うブライアンにカード目録は更新され続けなければならない図書館以外の場所で保管するのでは駄目だやはり貴方はわかってないと嘆くハリー、銃声が響きハリーは倒れる、外から「誰が撃った!?ハリー大丈夫か!?」とブライアンの怒声が聞こえる、ハリーは痛みに苦しみながら命からがら起爆スイッチに手を伸ばす、震えるハリーの指がボタンを押し図書館が爆破され終幕、かと思いきやボタンを押すカチという渇いた音が響くだけで遠隔操作が作動しない(恐らく何か不具合があったのだろう)、ハリーは目を見開き何度もボタンを押すが虚しく音が響き続けるだけで爆弾が爆発することはない、ハリーは絶望しぽつりと絞り出すようにこぼす「…何がテクノロジーだ」、地べたに座り込み机に背をもたれ掛けたハリーは最後の力で起爆スイッチを投げつける、力尽きたハリーの腕が床に落ちる、ハリーが放り投げたスイッチが壁際の本棚に当たる、スイッチの当たった本棚の上段から爆弾が床へと落ちる、爆発音、目を開いたまま力尽きたハリーが真っ赤な明かりに照らされるなかアヴェ・マリアが流れる、終幕。

ハリーは皮肉にも一抹の願いを込めたテクノロジーに裏切られ、最後までテクノロジーを嘆いて死ぬ。そして彼が護りたかった神聖な目録カードと図書館という場所は彼の意思から離れたところで炎の海に呑まれていく。

ハリーは自分の意思で死んだ訳でも無く、彼自身の意思で自身の神聖なものを護ることも出来ずにあの物語は終わるのだ。

その演出、彼の最期に強烈なやるせなさを抱き、何度も静かに涙を流したんだと思い出し、記憶を残しておきたいと思ったのでここに記しておく。

ああ、そう。最後に、炎に包まれたとつかくんのハリーは最後まで目を見開いたままで、それがとても苦しかったのだけれど、しゅうとくんのハリーはゆっくり、ゆっくりと、静かにその瞳を閉じていて何だかすこし救われた気がした。

わたしが2020年に観た『Defiled』は確かにある種の"ユニーク"ではあったのだろう。けれど、そのユニークさは何とも切なさが募るものだった。

そのユニークさはDefiledとして正しいものだろうか、何故そうなったのだろうか、この時世のために距離を取らなければならなかったからだろうか。こんなの、意味もない思考だ。

これは無粋な話なんだけれど、でもやっぱり頭の片隅で「"自宅でVR配信で芝居を楽しむ"なんて、ハリーが顔を顰めそうだな」と笑ってしまったりするんだ。

とっておきのお気にいりで着飾って、ざわめく客席で胸を弾ませ、一瞬の熱量を浴びて、終演後に翌日の仕事を気にしながらも終電間際まで友人達と話し込んでしまう、ハリーが「"ユニーク"だ!」と目を細めるのはきっとそんな演劇体験。

そんな演劇体験が何よりも恋しい。
はやく普通にお芝居が観たいなあ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?