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しるし:キャンドルライトサービスで

聖夜に近くの教会に足を運んだ。

住宅街の家たちに紛れて立つ小さな教会である。
毎年キャンドルライトサービスにだけ参加していたのも、かれこれ10年前のことだ。

ほぼ満席だった当時と比べると今年はまばら。感染症の危惧があるお年寄りが多いせいかもしれない。
そしてちっとも足を運ばないうちに牧師さんが女性に代わっていた。

私は無宗教だけれどプロテスタント系の大学で少しだけキリスト教について学んだ。当時仲の良かった友達と必修だが出席率の悪い基督教学のクラスに必ず出ていた。友人も無宗教なのに二人してヨブ記にはまってしまったのである。旧約聖書を学んでいた時のことである。
様々な苦難に襲われるヨブ。
ヨブったら今度はこんな苦難に。。。講義が終わるとそう二人で話したものだ。付き合っていた彼とうまくいかない、それが最大の不幸だったころの私たちである。

先日その彼女からクリスマスカードが届いた。
見るとドイツの住所になっている。
私がカナダに越したころ一時日本に戻っていた彼女だがまたドイツに戻ったようであった。
入れ違いでもう何十年という単位で会っていない。

そんな彼女からのクリスマスカードが久しぶりのキャンドルライトサービスに私を誘った。

ドイツ語が分からないけれど。豪華な建物のきらびやかなカード

聖夜の礼拝は7時きっかりに始まった。
オルガンの音色が響き渡る。
20人にも満たない礼拝者とともに歌う讃美歌は私を心地よくさせた。時折ソプラノやテノールの音でハモってくれる方々がいる。

そしてキャンドルサービスも半ばを過ぎたころ讃美歌103番のあと

ルカの福音書2章8-12節

あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである

そう読み上げられたとき私ははっとした。

しるし

その日本語が突然、夫が残したSign(サイン)という言葉としっかりと結びついて私の胸に落ちたのである。

亡くなる前にSignを決めて。
そう娘に言われて夫が選んだもの

もちろん、夫が亡くなった後私はそのSignをとても大切にして生きてきた。

でも今この教会でしるしという言葉を聞いたとき、それはsignという単語よりもっと私の胸の深いところに納まったのである。

夫は無宗教だと言って禅宗を勉強したりしていたが、育ての両親はキリスト教。夫はキリスト教の環境で育ったはずである。
夫の中にエンジェルがいたのも、signを残すのもそういう文化が下地になっていたはずだ。
そして私はsignをしるしと表現する日本語の文化で育ったわけで。

夫が残してくれたしるし

そのことを思うと私は涙が出てきて、この後の讃美歌が歌えなくなってしまった。
もちろんわかっていたけれど、夫の残したしるしはこれからも、まるで信仰する神のように私のそばにあり続けるだろうと思えたのである。

これからも私を見守っていてね
Be with me
お願いだから

祝祷のあと
夫に伝えた


夫の最期と残されたしるしについては↓

カナダにいれば日常的に英語で暮らしているのに、胸の深いところに落ちるのはいつだって日本語である。



日本とカナダの子供たちのために使いたいと思います。