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保護者の会でやりたいこと

 今年から不登校の子どもの保護者の会を始めた。子ども食堂の協力を得て始めることができたのだが、今はこの状況なので休んでいる。

 始める前のことだが、不登校家庭の支援団体などが地域にあるのかどうか、近くの公共施設に相談に行った。そこで三つの支援団体を紹介された。とりあえずその一つの団体に連絡したところ、その団体で活動している女性に会うことになった。

 その女性が属している団体は、主に家庭教育を学び、悩んでいる保護者の相談を受け付けている団体だった。不登校の子どもの保護者がたくさん学びに来ていると言っていた。

 まず少しこちらの状況を聞いてもらった。彼女はわたしが明るかったのでやや拍子抜けしたようだったが、その後、親はこうあるべき論を述べ始めた。そして、「kazumiさんが地元で保護者の会をやるときは、是非呼んで!」と興奮気味に話を終えた。

 母親が笑顔でいることが大事。それは分かったのだが、わたしは違和感を覚えた。彼女に全く悪気はない。誰かを純粋に救いたいと思っているし、寄り添おうともしている。しかし、自分の知識を披露したいという思いが濃く見えた。

 わたしがやろうとしている保護者の会は、何かを教えるために設けるのではない。ただ、悩んでいる保護者に息抜きしてもらいたいのだ。

 ただでさえぼろぼろになっている人に、持論を展開したところで、さらに追い込んでしまうだけだ。前向きになろうとしているところをまた後ろ向きに引き戻してしまうこともある。学ぶ余裕が出てきたら学べばいいし、学ぶべきは不登校の子どもの親だけではないし、子育て論の本もたくさんある。今のわたしはこの女性の話をまともに聞くことができたが、もう少し前のわたしだったら耐えられなかっただろう。

 こんなことを言っているわたしだが、前は、自分の子どもが不登校になった経験を生かして、困っている人に何かアドバイスできないかと思っていた。しかし、何人かのお母さんの話を聞くううちに、それはとんでもない思い上がりだったということに気がついた。わたしの世界が全てではない。事情も悩みの程度も人それぞれだという、当たり前のことに気がついたのだ。

 自分がどん底にいたときに、わたしはどうしてほしかったか。ただ誰かに話を聞いてほしかった。子育てをしている間は、余裕がなくなって、まともに子どもと向き合えなくなることもある。保護者の会は、来た人が平等に話せて、誰からも否定されない場にしたい。状況はすぐには変わらないかもしれないが、話すことで日常に元気と余裕を少しでも取り戻せてもらえればうれしい。

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