学としての法律、業としての法律
大学・大学院の恩師との会食。勤め人になったことで、先生に「教える」ことができた。先生と出会って、たぶん初めて、「等量」のお喋りができたんじゃないかな。
検討課題について、興味深い情報交換ができたので備忘録を残す。
弁護士を使う身の上になった。
先生にお願いをする、ということではなく(ビジネスの関係性ではそういうことにしているが)、こちらが弁護士を使役するという見方が染み付いてきている。
ついには、高校の後輩が弁護士を目指していると聞いて、「仕事に困ったら事案を回してあげるよ」と口走ることにもなった。
弁護士という仕事の社会的地位が落ちてきているのだと思う。相対化していると言った方が穏当か。保険会社は事案対応上弁護士が窓口になることに慣れてしまったし、彼らが事案対応上どこまでの力を発揮できるのかをおおよそ見抜いてしまった。そしてそれでも弁護士が交通事故をフィールドの一つとせざるを得ない程度に、弁護士が増えてしまった。
司法制度改革、とりわけロースクールの設置は、法曹人口の拡充と実務法曽のトレーニングを専修的に修めた法曹人材の輩出という当座の目標には成果を出したのかもしれない。しかし、そこで「規格化」「大量生産」された法曹人材を、市民社会がどう受け入れるかについては、たびたび指摘されながら十分に検討されることはなかった。現に事案対応をしていても、弁護士委任はどんなに費用負担が無い(保険金で払える場合がある)ことを分かっていても、なおハードルが高いと感じる層が一定存在する。市民社会が、司法的解決手続きを介して紛争解決を図るというプロセスを身近なものとして受け止め切れていないと言うほかない。
ロースクールの設置が招いた事態には、「学としての法律」の価値の相対化と、「業としての法律」の価値の底上げも大きいと思う。大学法学部は、その研究・教育のための資源の多くをロースクールに割かざるを得なくなった。そしてそこでは、ある紛争や論点を実務上どのように解決させるか・判例がどのような示唆を持っているかの検討が前面化し、学説を参照し制度史や社会史を紐解き外国法を比較する作業は重要視されなくなっている。「本件はどう解決されるか」にしか視点が集まらないのだ。
これでは、事の軽重・難易度の問題はさておき、保険会社が示談代行でやっていることとなんら変わらない。
高度成長期の終わり頃にかけて、公害訴訟やPL訴訟などを主導した弁護士は、手弁当で社会の暗部に切り込んだという。いまの統一教会問題での弁護士の活動にもそうしたものが通ずるかもしれない。そうでもして社会正義の実現のためにという思いが駆動していたのかと思うと、憧れと尊敬も感じよう。法がもたらす秩序のうんたら、あるべき世界の形のかんたらを、恥ずかしげなく語る風土の醸成という視点は、司法制度改革にあったのかと問いたくなる。
依頼人の勝敗を第一とする弁護士と、社会正義を追い求める弁護士の行く末がどのようなものかを残酷に描いたと思うと、リーガル・ハイ(フジテレビ、2012・2013)の見方もまた変わってこよう。