小さな小さな、声を聴く。
デンマークに来て、もうすぐ1年が経つ。
日本で生まれ、日本で育った私にとって、海外で過ごすということは、少しチャレンジングだった。
1年を通して、デンマーク人や他のインターナショナルと時間を共有して心に強く刻まれた概念が、「マイノリティー」である。
私は、ここデンマークでは、外国人なのだ。
母語がデンマーク語ではない、外国から来た人。
ああ、なるほどなと思った。
デンマークは、ヨーロッパの中でも北欧と呼ばれるエリアの、人口が550万ほどの小さな国。
商業的にも海外に目を向ける企業は少なくなく、教育を受けるときにも英語の学習がある。小さい頃から、英語圏のコンテンツを消費する。加えてデンマーク語は英語とルーツを同じくするゲルマン語系で、英語にも似ているところが少なからずある。
そう、彼らはとても英語に堪能だ。
2019年版「英語能力指数ランキング」では世界第4位である。(100カ国中)
https://www.efjapan.co.jp/epi/ (EF EPI 2019)
日本は、53位。レベルとしては「低い」に分類される。
かく云う私も、英語のレベルはその程度である。
仮に英語で話しかけられても、100%のコミュニケーションは難しかったりする。
もちろん、彼らの中にも英語に苦手意識を持つ人は少なくないが、それでも日本人の平均的なレベルよりははるかに高い、雲の上レベルだ。
しかし、彼らは英語を話さない。
私はデンマークのフォルケホイスコーレというカテゴリの学校に滞在しているのだが、学校によってはインターナショナルの生徒を受け入れている。
デンマーク語メインのクラスが殆どだが、インターナショナル向けに英語メインのクラスも展開されている。
インターナショナルの生徒は、近くのヨーロッパからアジア、アメリカ(南米含む)、中東など世界中から広く来ているといってよい。
全員に共通して好ましい言語は、もちろん英語である。
しかし、彼らは英語を話さない。
もちろんここはデンマークで、公用語はデンマーク語ではある。
当然、住んでいる人たちはほとんどがデンマーク人だ。
学校の構成比でいうと、80%以上がデンマーク人、残り20%がインターナショナル。
全体で集まる朝の会、ランチ、ディナー、クラス、etc...
彼らはマジョリティーである。
頭上を、目の前を、デンマーク語が飛び交う。
右耳から左耳に、デンマーク語が通り過ぎていく。
例え全員がそこに居ても、全員に向けた伝達事項を伝えるにしても、まず最初に発せられる言葉はデンマーク語である。
第一にデンマーク語で情報が伝えられると、彼らにとって英語の情報はもはや要らない。
ざわざわし出す。次に話される英語は、ざわざわにかき消される。
まるで、自分はそこにいないのではないかという錯覚に陥る。
この感覚と、私たちは毎日付き合う。
そして、向き合う。
ああ、これが外国人であるということかと。
そして、この感覚を、私たちは自国で生み出しているのだと気づく。
そう、一度外に出てみないと、この感覚には気づけない。
気づけないまま、私たちはマイノリティーをいないことにしてしまう。
一つ前の学校のデンマーク人の友達で、アネという子がいた。
クラスが終わると自然と談話スペースに人が集まり、会話が始まるのがホイスコーレ流である。
カウチに座りながら、ドリンクやスナック片手に、日常のなんてことない会話が繰り広げられる。
デンマーク人が多数を占めるそこでは、話される言語は当然デンマーク語だ。
インターナショナルは、彼らの会話の文脈の中でごくたまに唐突にされる英語の質問で、ちょっとだけ会話をする。一問一答。ユーモアとは文脈から生まれるものだと、気づいたものだ。当然、そこにユーモアはない。
彼女は、インターナショナルが近くにいると、すかさずデンマーク語を英語に翻訳して伝えてくれた。英語に翻訳されてわかった会話は、なんてことはない。意味のある会話が何かと言われると窮するが、本当にくだらない話のことの方が多い。
それでも、彼女は翻訳を続けてくれた。
尋ねると、彼女も以前、海外に身を置いたことがあったという。
その時の彼女は、今よりは劣るが、もちろん英語でのコミュニケーションは取れた。
しかし、友達にスペイン語を話す人が多く、彼女もまた、そこではマイノリティーだった。
同じ感覚と、付き合い、向き合った。
その経験が、彼女をそうさせるといった。
ここデンマークでは、ごく日常的に「デモクラシー(民主主義)」という言葉を耳にする。
政治で言えば、国政選挙の投票率は常に80%を超え、成熟した民主主義がそこにある。
彼らのデモクラシーは選挙だけでは終わらない。
日常的にも、物事を決めることに対しては話し合って決めることに長けている。
これもデモクラシーの為せる業だ。
とても素晴らしい文化だ。
民主主義について、私が学校で習った記憶では「多数決の原理」を利用するものだと思っている。いわば、マジョリティーの意見が全体の意見として採られるということである。
それと同時に、「少数派の意見にも耳を傾けなければならない」というフレーズを記憶している。
マイノリティーへの配慮。
言葉どおりだが、これは難しい。
なにせ、マジョリティーの側にいると、気づかないのだから。
そして、マイノリティーの側に身を置いて、初めてわかった。
声は、簡単にはあげられない。
あげた声は、簡単に風にかき消される。
マジョリティーは、マイノリティーの声を簡単に消せてしまう。
年が明けたら、日本に帰国する。
私はまた、マジョリティーになる。
日本人というマジョリティーに。
この場合、マジョリティーとマイノリティーを分けるのは「日本語」という切り口。
どこを切るか、なにで切るか、いつ切るかで私たちは何にでもなり得る。
切り方次第で、マイノリティーになる。
切り方次第で、マジョリティーになる。
簡単に、声をかき消せる立場になる。
簡単に、彼らをないものにできてしまう。
静寂を作ろう。耳をそば立てよう。
彼らの、声を聴こう。
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