価値について

なぜサッカーには『解説』よりも『批評』が必要なのか——。 サッカーにおける「価値」の定義

先日Tweetした内容を、もう少し詳しく書いていきます。私がまず「価値」について考え始めたのは、アルゼンチン国内における「サッカーの価値」と、日本国内における「サッカーの価値」との間に、雲泥の差があることを目撃した時からでした。「サッカーの価値の大きさが全く違う…」という言葉が思わず口から漏れてしまうわけですが、ではその「価値」の正体が一体何者なのかを整理しなければ、私たち日本人が「サッカーの価値」を日本にもたらすことは出来ないのではないかと、そう思ったのです。


価値と評価と批評

前提としてある事柄の「価値」を考えていく上で、整理しければならないのは「サッカーとは、何のカテゴリーに属し、評価されるべきなのか?」という点です。「価値」とは「評価」され得るものです。「評価」され得るということは「批評」することが出来る、ということになります。ニーチェの言葉を借りれば『芸術表現の至高形態は、価値の創造そのものである』ですから、仮に私が言うように『サッカーとは芸術である』のであれば、サッカーは芸術の一つのカテゴリーの属し、芸術のカテゴリーに属すということは、「価値の創造」であり、「批評」が行われ得る、ということになります。

例えば、ある観点から言えば「映画」というものは「芸術」というカテゴリーに(も)属し、その上でたとえば「映像芸術」であると言うことが出来ます。そしてその中でも、あらゆるカテゴリーが存在します。つまり、カテゴリーというものは決して一つに限定されるわけではない、そしてあらゆるカテゴリーを跨ぐ、ということはここで留意しておいてください。ただし「映画」を誤ったカテゴリー(例えば文学など)で認識をしてしまうと「適切な評価」を行うことは出来なくなってしまいます。ここで一つ、私は「サッカー」という何らかのものの「カテゴリー分け(分類)」の時点で日本人は誤りを犯しているため、サッカーを正しく評価することが出来ていない、と考えております。すると「適切な評価」も「良い批評」も存在し得なくなってしまいます。


批評とはなにか

では、そもそも「批評」とは何か、というと途方もない長旅になってしまうのですが、ここでは著名な美学者ノエル・キャロルの定義を元に「芸術批評」という観点で話を進めていきましょう。彼によると『芸術批評とは理由に基づいた「価値づけ」である』と定義をすることが出来ます。その「理由」を構築するために用いる概念が「記述」「解明」「解釈」「分類」「文脈づけ」「分析」などの作業になりますが、サッカーでよく用いられる「解説」という行為(ピッチで実際に起こっているor起こっているように見える現象を説明する行為)は、芸術批評における「記述」や「解明」などの作業に近いです。

サッカーではよく「解説」という言葉を用いてある種の評価が行われますが、あくまでも「解説」というのは「批評」の中の一部分であると言えます。「解説」は必要な作業ではありますが、解説を行っただけでは「批評」にはなりません。私がサッカーに重要なのは「解説」ではなく「批評」である、と考える理由もここにあります。

もし、より深く勉強したい人がいれば彼の著書を読んでみてください。


論点まとめ

さてここで一度、ここまで書いたことを整理します。

①アルゼンチンと日本における「サッカーの価値」には雲泥の差がある
②では「サッカーの価値」とは一体何なのか
③「価値」は「評価」することが出来、即ち「批評」が可能である
「価値」を定義するためには「分類」の作業が必須である
⑤芸術とは「価値の創造」である
⑥仮にサッカーが芸術なのであれば「批評」がされ得る
⑦「批評」とは「価値づけ」である
⑧サッカーを批評するためには「価値」の構造定義が必要である

ここで、「そもそも私はサッカーを芸術だとは思わない」という方がいらっしゃると思うのですが、そのような方でも「サッカーの価値」を整理していなければ「サッカーの価値」をつくることは出来ないので、ぜひ読み進めてみてください。本題に入ります。


2つの価値から3つの価値へ

まず、「サッカー」というものには大きく「2つの価値」が存在していると私は考えています。それが『競技的価値』『商業的価値』の2つです。『競技としての価値』また『商業としての価値』と言い換えることも出来ます。今回はそのうちの『競技的価値』について話を進めていきます。

競技的価値、つまり「サッカーを“競技として”プレーするにあたって、どのような価値をもたらす可能性があるのか」ということです。ここでひとつ触れておかなければいけないのは、「特定の意図がない限り、サッカーは“スポーツ競技”としてプレーされる」という点です。つまり「私たちは競技としてサッカーをプレーしない」と言わない限りは、サッカーとはスポーツ競技であり、スポーツ競技であるということは「目的=相手競技者よりも優れた結果を残すこと=勝利」である、ということになります。それを前提にした上で、私は「サッカーの価値」を以下のように認識しています。

サッカーの価値_アートボード 1

勝敗的価値:結果(勝敗)よってもたらされる価値
成功的価値:クラブ(チーム)が「どのような意図や目的を持ってプレーするのか」という観点に基づいて、その意図や目的をプレーすることによって達成している場合を「成功」とし、達成出来ていない場合を「失敗」とすることによってもたらされる価値
受容的価値:ゲームをみている(プレーする人間以外の)全ての人間が、ゲームを観ることで得られる「体験」や「経験」によってもたらされる価値

定義をするとこのように回りくどい言葉になってしまいますが、それぞれを簡単に言うと「勝敗的価値とは勝ったか負けたか」で、「成功的価値とは意図を達成出来ているかどうか」で、「受容的価値とは見ている人に何らかの経験を与えているかどうか」です。


価値の誤認識

この中で『勝敗的価値』は、絶対的に最も大きな価値を持ちます。この価値がなければ「スポーツ競技」にならず、つまりサッカーにはならないからです。よく「サッカーは勝ち負けが全てではない」もしくは「サッカークラブの経営においては勝ち負けが最重要ではない」という発言をされますが、これは誤りです。「勝敗的価値」をもたらすことを最重要なものとして捉えなければ、その他の「成功的価値」と「受容的価値」をもたらすことはないからです。そもそも、

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