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サッカーという競技は「技術」に集中するべきか?それとも「影響」に集中するべきか?

人が何らかの目的を達成しようとするとき、時や場を同じくして、同じ目的を達成しようとする「他者」の存在があるかないかによって、必要になる戦略や、それに伴う自らの行動指針が変わることに疑いの余地はない。しかし何かを「争う」者たちは、時にそれを忘れてしまう——。

▼前回の記事(Vol.3)



■「時空間」と「妨害」の概念

“競争と闘争の違いで最も大きなポイントとなるのは「時空間」「妨害」である。「妨害」とは「競技者が目的を達成しようとする過程において、相手競技者に意図して干渉をする行為」のことを言う。競技中における「干渉」とは、「邪魔(阻止等)」をすることはもとより、相手競技者を「援助」する(結果的にしてしまう)ことも含まれるが、競技者自ら「援助」を選択することは通常考えにくいため、『CST』の定義においては「妨害」と表記した。”  Vol.2より

前述しているように『競争(C)』と『闘争(S)』を分ける最大の要因は、前者が「異時空間」で行われるのに対して、後者が「同時空間」によって行われることである。それに伴い、前者は相手競技者に直接干渉することができないのに対して、後者は意図して干渉(=妨害)をすることが可能になる。

言葉にすると当たり前に聞こえるが、これによって両者間に発生する相違を理解せずに競技または訓練を行なっている競技者は多い(=思考態度のエラー)。ここからは、実際に「時空間」と「妨害」によって発生する相違点を上げながら、両者にそれぞれ求められる「思考態度(Mindset)」について考えてきたい。


■競争は「技術」に集中する

競争(C):技術に集中する

まず第一に、『競争』における競技者に関しては、相手競技者からの干渉を直接受ける可能性が0%であるため、目的を達成するためには『(自己の)技術に集中する』ことが求められる。自らが持つ各競技に必要な「技術」を最大限に発揮することができれば、それに応じた然るべき結果を手にすることができるのが基本である。よって、自らの持つ「技術」の100%を実行する訓練を進めていかなければならない。


■闘争は「影響」に集中する

闘争(S):影響に集中する

一方『闘争』における競技者に関しては、相手競技者からの干渉を直接受ける可能性が1%以上であるうえに、自らも相手競技者に干渉を加えることが可能になるため、目的を達成するためには『影響に集中する』ことが求められる。自らが持つ「技術」を極めること(=時間を費やすこと)が、必ずしも結果に繋がるとは言い切れないのが『闘争』である。よって、自らの「行為=実行」が相手競技者、または自己に対して与える「影響」に最も重点を置いた訓練を進めていかなければならない。 


■『競争』に与えられた保証

競争(C):自らの技術を実行出来る権利が保証されている

『競争』に分類される競技に関しては「競技中自らの技術を実行出来る権利が保証されている」と言い換えることが出来る。例えば体操、水泳、フィギュアスケート、短距離走などの競技を思い浮かべれば「競技の始まりから終わりまで」他者によって技術の実行を止められることがないことがわかる。そのため、各競技者は出来る限り「平等」の状態を規定された中で「争う」ことになる。逆を言えば「技術を極めることしかできない」と言うこともできるし「競技中は技術を実行しなければならない」と言うこともできる。競技が始れば「何もしない」という選択をすることは基本的に許されていない


■『闘争』に与えられた保証

闘争(S):相手に影響を与える権利が保証されている

一方『闘争』に分類される競技に関しては「競技中自らの技術を実行できる権利は保証されていない」。その代わり、規定内において「相手競技者に影響を与える権利が保証されている」。格闘技や、サッカー、バスケットボールなどの競技を思い浮かべれば、相手競技者の干渉や状況によっては「技術」を発揮することができない可能性がある代わりに、相手に「干渉」つまり「影響」を与えることを禁じられることはない。つまり「技術を極めることが最重要ではない」ということ、また目的を達成するためには「それ以外の方法が存在している」ということがわかる。競技が開始されてから「何もしない」ことが相手競技者に強い影響を与えるのであれば、『闘争』においてそれは選択肢の一つである。


■「技術」と「影響」どちらを軸に考えるか

つまりスポーツにおける『競争』と『闘争』の両者は「スタート地点」が異なる。『競争』においては競技中に「技術」を発揮することが保証されている上に、開始から終了までの流れは「事前にわかっている」状態であるから、「技術を高める」ことからスタートをする(訓練を始める)ことが出来る。

一方サッカーのような『(団体)闘争』を考える場合、競技中に自らが持つ「技術」を発揮できるかどうかが保証されていない上に、相手競技者の「行為=実行」によって、開始から終了までの流れが「事前にわかることがない」わけであるから、「技術を高める」ことからスタートする(訓練を始める)のは間違いである。その代わり「相手競技者に影響を与える権利」は保証されているため「どうすれば相手競技者により効果的な影響を与えることが出来るのか?」を「考える」もしくは「体験する」ことが優先になる。

日本サッカーはこの両者の違いを理解していないと主張したい。Vol.2でも書いたように、日本はサッカーを含む『団体闘争(TS)』が「競争的思考態度(Competition Mindset)」によってで行われている、と主張する根拠のうちの1つがこれである。


■日本人について

“日本の美術教育はデッサンに異様に執着するところがあって、現代の日本人は総じて絵がうまくなっています。つまり、日本の頼るべき資産は技術で、欧米の誇るべき資産はアイデアなのです。日本は技術があるので低価格でいいものができる基盤ができています。そこに目をつけるべきかなあとは思います。闇雲に「日本はすばらしい」と言うのは反対ですが、日本の特色を気にして、うまく運用するべきだ、とは思うのです。” 著『芸術起業論』村上隆より

さて、日本人はこれまで、あらゆる分野において「技術で世界と渡り合ってきた」と私は認識をしている。芸術の分野も、経済の分野も、スポーツの分野も同様だ。よく言われることだが、日本のプロダクト完成度の高さは、たとえ百円均一であっても世界に比べれば圧倒的なものである。日本車が世界で人気を博したのも、その技術力の高さに起因すると解釈することができる。しかし現在の日本車が、かつてほど売れなくなったことを見てもわかるように、残念ながら「技術」は時代が進むにつれてコピーが可能になっていく。差がなくなるのだ。

一方で「人間そのものが持つ技術」に関しては、研究をすることはできても「人間そのものがコピーをする」ことは容易ではない。つまり日本人が持つスポーツ競技における「技術」というものは、日本人が進化を続ける限りコピーをされることはないということである。

何度も書いてきたが、日本人が世界でトップトップを争っている、もしくは争ってきた競技分類は、全て「団体闘争以外」である。日本人は唯一『団体闘争(TS)』“のみ”世界で結果を残すことが出来てない。その理由の一つに、この「団体闘争の競技は技術が最重要要素ではない」ことがあげられる。私たちはサッカーやラグビー、バスケットボール、水泳、ハンドボール、アメリカンフットボールなどの『団体闘争』を「あたかも『競争』であるかのように(技術に軸を置いて)」プレーしてしまっているのではないだろうか?


■なぜ『個人闘争(IS)』で結果が出せるのか?

既に前述しているように『競争』においては「個人」で行われるものがそのまま「団体」として行われるため、同じような思考態度を取ることができるが、『闘争』においては「個人」と「団体」では異なる思考態度が必要になる。『個人闘争』が多人数で同時に行われることがないこと、そして『団体闘争』が個人で行われることがないことがそれを証明している。

では、なぜ『“個人”闘争』で結果を出せる日本人が『”団体”闘争』では結果を出せないのだろうか?これまで書いてきた情報では不十分であるため詳しくは後述するが、「技術」という観点で少しだけ触れておきたい。

たとえば『個人闘争(IS)』に分類される競技に関しては、柔道を例にとっても「型」があるものが多い。つまり『闘争』でありながら採点競技(競争の特徴)なのである。ご存知の通り柔道では「型」つまり正しい技を繰り出して相手に影響を与えることで、初めて相手よりも優れることができる。レスリングに関しても他の格闘技系の競技分類に関しても、「正しい技のかたち」が先に定められているため「競争的な要素」が多く含まれるのが自然である。つまり「相手競技者への干渉の仕方における制限」が多ければ多いほど、「技術」が高い選手が目的を達成する(=勝利する)可能性が高くなるのである。

つまり制限の多い「ボクシング」は、より「競争的」と言うことができ、一方制限の少ない「総合格闘技」は、より「闘争的」と言い換えることができる。事実、日本人はボクシングの世界的な結果に反して総合格闘技では結果を残すことが出来ない。

あくまでここでは「技術」という観点で話をしていることは今一度確認していただきたい

なぜ『間接的闘争』では結果を出せるのか?に関しても同様に、これまで書いてきた情報量では不十分なため後述する


■サッカーにおける「技術」

日本人にとっては不幸なことかもしれないが、「サッカー」という『団体闘争』は、同競技分類の中でもっとも闘争的要素の多い競技と言える。制限が少なく、ルールもシンプルである上に、人数が多く、ピッチ(余白)も広いため、より複雑なプロセスが求められる。つまり「技術」よりも「影響」に軸を置かなければならない。

私たちが信じている「サッカーの技術」とは、柔道における「技術」とは全く異なるものであることは今一度確認をしておかなければならない。サッカーにおいては、「インサイドキック」という誰かがつくった「型」でパスをしなくても、本来は良いはずである。それはサッカーの競技における「得点を入れる/失点を防ぐ」という勝利に準じた目的において何の考慮もなされない。極端な話、膝でボールを扱う方が良い選手は膝で扱うべきであり、そこには「遊び」の要素が含まれていなければならない。ピッチ上で繰り広げられる「常識」は、あくまで「みんながやっているもの」であって、それに反しても全く問題はない。「パスは地面を通すものではなく出来るだけ高くボールを蹴り上げたほうがいい」という極端な発想を、誰も否定することがきないのだ。


■日本人の子供は「良い選手」と呼ばれる

日本人の子供は、世界的に見ても本当に「技術」が高い。それによって、青年期に入るまでの年齢の選手たちは、世界のビッククラブと試合をしても勝るとも劣らない。それがプロに近づくに連れて差が広がっていくのは、もちろん様々な要因がある中で、この「技術」の捉え方の違いも一つの要因であると考えることができる。

日本人は『競争的思考態度(≒技術に軸を置いている)』であるからに「技術を高めている」のに反して、世界の『闘争的思考態度(≒影響に軸を置いている)』をとる競技者は、「影響を与えるために技術が必要」であるから「技術を高めている」のだ。ここには大きな違いがある。日本車の技術が「時間経過ともに追いつかれる」のと同じように、子供〜大人までの成長の過程で、日本人の子供が器用に身に着ける「技術」は、大人になった時に「差」として現れることはない。

子供の試合においては「相手に影響を与える手段」として「技術」が最も大きな役割を果たす。むしろそれ以外はほぼないと言っても過言ではない。しかしプロフェッショナルの世界では、それ以外にも無数に「影響」を与える要素、又は与えられる要素が存在している。


競争的向上周期(Competition Improvement Cycle)

日本人の感覚として、全てのスポーツ競技と呼ばれるもの(スポーツに限らないかもしれないが…)において「目的=勝利」を達成するためには「まず練習」という神話的に信じられている考え方がある。スポーツは、練習をしたことが試合と直結し、より目的に近づくことが出来る…。

多くの日本人が勘違いしているのは、上の図が「全てのスポーツ競技に適応される」と思っている点である。しかし、この「まず練習をして(練習に軸を置いて)試合をする」というサイクルは『競争(C)』にのみ適応されると私は考えている。ここではこのサイクルを「競争的向上周期(Competition Improvement Cycle)」と呼ぶ。

なぜなら『競争』とは前述している通り「技術を高めること」からスタートをすることが可能であるからであるし、それを「実行」出来ることが保証されているからだ。競技によっては「このように実行すれば必ず目的を達成できる」と保証されているものもある。つまり「練習は裏切らない」のだ。であれば、試合(実践)をする前に練習から始めた方が効率が良いのは明らかである。

日本人は、このサイクルが世界で最も得意である。


闘争的向上周期(Struggle Improvement Cycle)

一方サッカーを中心とする『団体闘争(TS)』においては、以下のようなサイクルで向上を求めるべきである。ここではこれを「闘争的向上周期(Struggle Improvement Cycle)」と呼ぶ。

スタート地点が仮に存在しているとすれば、サッカーはまず「試合」をする、つまり「実践=競技の実行」を先に行うべきである。本来必要になる「技術」が「事前にわかる」ことは理論的にはないはずで、まず体験をしなければ何も始まらない。極端に言えば、サッカーという競技の目的(=勝利)を達成するためには「練習が必要のない可能性もある」ということであり、練習をすることよりも、例えば「戦略を考える」ことの方が相手競技者へより効果的な「影響」を与えることが出来る可能性が高いということである。サッカーにおいて「練習は裏切る」のだ。よって「まず試合をして(試合に軸を置いて)練習をする」のが正しいサイクルである。


■日本人が苦手とするサイクル

日本人は「闘争的向上周期(SIC)」が苦手である。「実践の前には練習をしなければ気が済まない」からだ。しかしサッカーという競技においてはその考え方がマイナスに働くことが多い。下の図を見ればわかるように、両者共に「練習→試合」というセットが存在しているわけであるから、これに気付きにくいのは確かであるし、両者は何も変わらないと考えるかもしれない。

しかし「まず練習」と考えることによって起こる「思考態度のエラー」は、サッカーから「遊び」の要素を消し、「試す」という概念を選手が持たなくなり、選手から「創造性」を高める機会を奪い取ってしまう(言わずもがなサッカーにおいて重要な言葉である)。

なぜサッカーにおいて上(青)の「競争的向上周期(CIS)」を軸において、つまりこのような思考態度によって向上しようとすることは悪なのだろうか?その理由を説明するには、もう少し文字数が必要である。


■人はどのように「自信」を持つか?

全てのスポーツ競技において重要となるのは、選手がいかに「自信」を持って競技を行えるか否かである。「自己肯定感」と言い換えることも出来るが、「自信を持つ」のも「身体的運動(=実行)を司っている」のも同じ「脳」であるから、ここでも『競争』と『闘争』の両競技分類において「自信の持ち方は異なる」というのが私の主張である。

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