人工内耳とアイデンティティの揺らぎ
私は、1999年に満3歳で人工内耳手術を受けた。3歳の誕生日は病院で迎えた。入院時の断片的な記憶はあるが、手術の記憶はない。
人工内耳手術を決めたのは母だ。私の意思で決められる歳ではなかった。
就学前判定ではろう学校か地域の学校か微妙な感じだったが、母は地域の学校に行かせることを決めた。そして、
小学校から高校までインテグレーションを経験した。アイデンティティは高校まで聴者に近い難聴者だと思っていた。小学校卒業する前に書いた卒業文集。テーマは将来の夢。
「手話通訳者になりたい」と書いていた。
2015年4月。
大学に入って聴者に近い難聴者だというアイデンティティは崩壊した。
はじめての情報保障(ノートテイク・パソコンテイク)で情報量に驚きを隠せなかった。高校までは後ろの席でも聞こえていたし教科書も板書もあった。放課後、先生に聞きにいくこともできたし友人のノート借りて書き漏れないか確認することもできた。
大学に入ると、広い講義室。教科書はなくうっすいレジュメのみとかそもそもレジュメすらない講義もあった。
レジュメに書いてないことを喋ってる講義も多くあった。テイクだけでは限界がある。聴者が後ろでぺちゃくちゃ喋ってたり途中入室があったり寝てたりする中で必死になって情報かき集めてたろう学生たち。
そんな日々のなかで、はじめて聞こえていない自分を自覚した。
障害者手帳持っていて、人工内耳を外すと無音の世界だから聞こえないということは頭でわかっていたが、本当の意味で聞こえていないと自覚したのは大学生になってからだ。
自分が思っていたより聞こえていないという事実にショックを受けた。
幸い、通っていた大学はろう学生が多く在籍していた。障害学生支援センターにいけば誰かしらいた。育った環境もコミュニケーション方法もアイデンティティも多様だった。英語の講義は聴覚障害学生のみのクラスか聴者と同じクラスか選べた。聴覚障害学生のみのクラスではASLと読み書きを教わった。恵まれた環境のなかで4ヶ月ほどで日本語対応手話を使って話せるようになった。
ターニングポイントは第35回全国ろう学生の集いに参加したことだ。
衝撃的だった。同じ年代の人たちが日本手話を使っていた。
失礼ながら、私は日本手話は大人が使うものだとおもっていた。なぜなら同年代の日本手話話者に出会ったことがなかったからだ(インテ育ちで地元は日本語対応手話が多い印象だった)
全日本ろう学生懇談会(全コン)に入ってたくさんのろう学生に出会った。
手話を始めて、10年目。
大学時代はろう者でもない、難聴者でもない、聴者でもない、中途失聴者でもない自分に苦しんだ。人工内耳装用者という枠組みのなかでもまた口話主義、手話主義で分かれちゃうし、聴力もアイデンティティも異なる。
私は何者なんだ。聞こえるけどきこえない。中途半端な自分。どこのコミュニティでも何かが違うと感じていた。
大学卒業後ろう学校専攻科に進学することを決めた自分。異例の選択をした。手話の会や青年部に入って、日本手話を使い始めた。いつしかろうコミュニティや日本手話が心地良いものとして認識するようになった。
そして、ろう高齢者施設に就職。手話が公用語の施設。入居者様のコミュニケーション方法は多様だ。時代背景もあり、高齢手話かつ日本手話の方もいれば日本語対応手話の方もいるし、口話の方、手話も文字も学べなかった方もいる。そんな日々のなかでろうというアイデンティティを得た気がしてた。自分の手話が、日本手話なのか自信が持てなかった時、人工内耳✖️日本手話の座談会のパネリストとしての依頼が舞い込んできた。まさかすぎた。私でいいの?と驚きつつも引き受けた。
日本手話に出会って、生きやすくなったのは確かであること。そして、表面上の会話ではなく日本手話で深い話ができるようになったこと。自分の考えを日本語でも話せる様になり、性格が変わったと言われるようになったことなどを話した。日本手話に出会う前の自分は今みたいにお喋りではなかったし議論することもなかった。
アイデンティティはろうと言いつつも、職場では揺らいでいた。聴職員に合わせて声を出していた。ろう職員の先輩から「軸がブレてる。」と指摘された。 ところが、精神科急性期病棟に入院したことがきっかけでアイデンティティはろう者であり、私は日本手話を必要としていると確信した。
なぜなら、精神的にも肉体的にもしんどかったあの時、日本語と日本手話の切り替えがうまくいかず身体が日本語を受け付けなかった。手話がない環境で心が死ぬのを体感した。口話できても日本手話は必要。1ヶ月間、通訳がおらず筆談と口話でスムーズなやりとりができず、ストレスを感じたし文化の違いを感じた。
例えば、「ちょっと待って」
ちょっとって何分⁈具体的に言って欲しいと思った。1ヶ月過ぎてようやく日本手話通訳が入るようになった時、ストレスなくスムーズに意思疎通できることに喜んだ。また概念の理解も日本手話だと一発で掴めた。
3ヶ月の入院を通してアイデンティティはろう。人工内耳でも日本手話は必要だと心の底から思えるようになった。
まとまりのない文章だが、人工内耳装用して20年以上の自分がアイデンティティを確立するまでのお話でした。最後までお読みいただきありがとうございます。