教えることを通して、気づいた4つのこと
「絶対、絶対先生にはならないもんね!」
小学生くらいのときからずっと、わたしはそう言っていた気がします。
なにかを他のひとに教えるなんて無理無理無理無理。ぶんぶん(首を振る)。だって、なにか聞かれても答えられないもん。答えを教えるのが先生でしょ?
まあ、そもそも先生になれたのか?という話しは抜きにして。とにかく、わたしはずっと「ひとになにかを教える自分」なんて1ミクロンも想像できないくらい、先生になりたくなかった。教えることと一緒に、先生には(その響きも含めて)威厳とか尊敬とか畏敬とか、そういう言葉ももれなく付随する存在だったからです。
先生と呼ばれる先生たちからは、よく怒られていたし、なんだか別の世界のひとのようにも感じていたんだと思う。親とも近所のおとなとも違う、先生っていうひとの形をしたなにか、みたいな。
そんな自分がひとになにかを教えるようになったのは、日本茶インストラクターという資格を取得してから。「え?おちゃ?おちゃのなにをインストラクションするの?」って、よく相手の頭に?が出る資格です。
(日本茶インストラクターとは、NPO法人である日本茶インストラクター協会が発行する資格。日本茶の普及を目的に伝えるため設立されていて、現在世界で5000人くらい。忘れもしない2009年、日本茶に対して直球に恋してしまってから、体系的に知識が学びたいと思ってこの資格を2012年に取得)
わたしは日本茶をのみ交わすときの圧倒的な平和感と、なにより意識して淹れたおちゃはうんまい、ってことを色々な方に味わって頂きたいなーという思いもあり、おちゃの愉しみかたを中心にワークショップを開催しています。
別に、取得したからといって全員が全員、ひとに教えることを積極的に行う必要はありません。ひとそれぞれに日本茶との関わり合いが存在しているのが、この協会で好きなところです。
ところで
今年はおちゃに取り憑かれてから10年。夢中で様々な活動をしていた中で「あ、いま、なりたくなかった先生の立場で日本茶と関わってる」って、ふと思う日がありました(今じぶんで先生って書いてますが、自分で言うの慣れようとしている途中ですからね、、どきどきです)。
そのとき、10年経って?とも思いましたが、今までは講師と受講者という感覚ではなく、よっしゃみんなでおちゃの旅に出ようよ!こっちだよ!という水先案内人のような感じを持っていたのです。でも、だんだんと先生と呼ばれることが増えてきて、上述のとおり個人的な先生に対する感覚も残っているから、複雑な気持ちを持ち続けていました。
そんなときにふと頭に降ってきた
「なりたくなかった先生の立場で日本茶と関わってる」
ということば。
わたしが先生ということは、わたしがわたしの言葉でどうしても伝えたいって思いの延長線上にいるってことでいいのかと、すこし顔の緊張がほどけた感覚が身体に広がりました。先生に対する意識が変わったことを感じた瞬間。
結局、自分の先生に対するイメージは全知全能、清廉潔白のようなのイメージ先行型で思考を止めてしまっていたものだったんだねって、こんなに歳を重ねてから思い至ったわけです。そんなひと、いません。先生も同じひとなのです。
前段長くなりましたが
そんな心持ちに至って、先生になりたくなかったわたしが
教えることを通して、気づいたことがあります。
❶教える分だけ、教えてもらっている
❷シンプルにではなく、ハードルを下げる
❸教える側はじぶんの「?」を日々小さくしていく
❹満足感はずっと味わえない
❶教える分だけ、教えてもらっている
教えるってことと、教わるってことは隣り合わせでした。
ワークショップや教室は、講師がいて受講して下さる皆さまで成り立っています。でもこの簡単な構図はただの記号。ふたつの間では一方向の情報の伝達という形で成り立っているわけではなく、参加者の数だけ、疑問・質問、事象が存在するため、教える側にとって、とても大切な学びの場になります。
つくづく、ひとは1人では成長できないことを実感します。ひとりの考えは、あくまでもひとりで、わたしの考えはあくまでもわたしの中にあるけど、それが他者との関わりの中で、特に教えているときには何倍にも変容し、発展し、拡張していく。
なにかを学びたいと思っている分野で、教える立場をお願いされたら、そのとき準備不足を感じていたとしても、絶対引き受けたほうがいいと思います。上記の通り、ひとに教える立場にいるときのほうが、確実に学びの加速度が増すので。
絶対、増すことしか起こりません。
❷シンプルにではなく、ハードルを下げる
教えるときもシンプルにカッコよくを目指したいけど、
それがじぶんの目的に繋がって、かつ伝わるのかは別でした。
ワークショップ始めたときは、とにかく短い時間の中で伝えたいことが多すぎて、文字もことばも多めだったので、聞いている方も疲れてたんじゃないかなと思います。あれもこれも!の時期は誰しも通過するのかもしれませんが、特にわたしはその傾向が強かった。
そのため今度はシンプルにシンプルに、と進めましたが、結局なんだか伝えたいことの真ん中が伝わらないような、もやもやばかり。そして、小学生向けの新聞や、こども電話相談室を聞いてるときに、シンプルじゃなくて、ハードルを下げる方向のほうが伝わるのかーと実感します。
ことばを言い換えたり、例えを多めにしてみたり。
事象を小さく小さく分割してみたり。
もちろん、ハードルを下げることは簡単ではなく、裏づいた知識や経験があればこそ。なので、わたしもハードルを下げる方向に進んでからは、より学ばなければ!と思うことが断然増えました。
結局、シンプルって伝わるひとに伝われば
という状態に陥りやすいんだと思います(教えること、の中では)。
❸教える側はじぶんの「?」を日々小さくしていく
ひとに何かを教える、というのは伝えると違い、相手の未来に向けた責任もあるので、教える側として「?」に感じていることは、日々小さくしなければならないと思っています。
ワークショップの準備をしていたり、おちゃについて考えているときに「?」が出てこないときは、きっと何かがずれている。何事もだと思いますが、わかったかもの次は、それがさらにわからなくなる感覚の繰り返しです。
たとえ、ワークショップ本番までにそのときの「?」が全て解消されなくても、わたしはそれを日々小さくしていこうという意識は、朝起きてから、寝るまで、いつも持っていなければと肝に命じています。
それが産地へいって学ぶことだったり、自宅での実験だったり、先輩に話を聞くことだったり。わたしが色々なところへ行くのはそのためです。じぶんの中の「?」を小さくしたいから。
❹満足感はずっと味わえない
満足を感じたら、もうじぶんのおちゃに関する役割は卒業です。
おちゃに関することを色々としていると「これで日々の満足が得られていいなぁ」と言われることがあります。でも、そもそもこのようなことをしていて、満足を感じたことがないです。
確かにひとつひとつが終わる度、今日はビールのもう〜くらいは思いますが、それは満足というより今日はお疲れ様、であり。それ以外は、次にああしたいとか、あそこもう少しなんとかとか、今日の疑問を調べよう・考えなくちゃに進むので、満足を感じている間がありません。
満足を感じ無いのに、やめないのは、おちゃに変態であるということもありますが(大部分かも、、)、まだまだおちゃを学びたいし、最近はこの「教える」ということをまだまだ学びたい、と強く思うから、このようなことを続けているんだと思っています。
不思議ですね、学びたいから教え続けたい、ということば。
でも本当に、この2つがあるから、続けられるんだと思います。
小さな暮らしの中でいつも感じていることは、あきらめたらそこで試合終了だし(これは終わりじゃなくて始まりでもあります、あきらめるとは、明らかにするということです)、満足してしまってもそこで試合終了だということ。
なので、おちゃに関することでなにか満足してしまったら
わたしのおちゃに関する役割は卒業するときです。
2019年、色々な場所でワークショップをする中で、教えるということについてより深く考えを巡らす時間をいただきました。なにより、教えることの興味深さに気づけたことは大きな収穫。教えるって沼みたいに深くて、質感はむちむちしてて、においは人間くさくて興味深い世界でした。
先生とか講師と呼ばれることが増えましたが、それ以上に、おばたからおちゃのことを教わると分かりやすいよね、って言ってもらいたい。なので、これからもおちゃに関するハードルを下げることに頭を使おうと思います。
続けることをやめずに、まだまだおちゃに関わっていきます。おちゃは全ての入り口だし(この辺りはまた改めて書きます)、こんなに震えるくらい、おもしれーって思うものはないです。
2019年11月4日
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