1844年弘化元年から梅と共に生きる酒蔵の話「菅原道真」

古くから梅の里として知られる越生町

関東三大梅林園のひとつ越生梅林。
2/13から梅まつりが始まりました。

2/13と2/14の土日は、暖かさにも恵まれて
近年の中では、かなり多くの人出となったようです。

「梅の花見」を愛する方々が多い事。
日本の風情として私も嬉しい限りです。

今週の半ばは、冷え込みも少し戻るので。
(最低気温マイナス6℃にも!)
満開の見頃は、少し遠ざかるかもしれません。

東京から1時間。
ふらっと何度も越生梅林に行きたいところです。

「その梅の花の変わり映えを楽しむのも、
梅の花見の醍醐味」です。



実は「古くから花見」と言えば「桜」ではなく「梅の花」をさしました。
今日はそんな話をしていきたいと思います。

古くから梅の里として知られる越生町(おごせちょう)の越生梅林は関東地方屈指の梅林で、

越辺川沿いの約2haの梅園内に白梅・紅梅の他に、越生野梅などの古木も現存していて中には樹齢650年を越すものもあります。



越生町で栽培されている梅の収穫量は、なんと約225トン!関東屈指の梅が獲れる越生町です。

越生の梅は果肉が厚いことで有名です。
だからこそ佐藤酒造店の梅酒は美味しいのです。

「佐藤酒造店の梅酒は、越生町の恵み」です。
弘化元年創業の佐藤酒造店が
蔵に自生する梅の木を
蔵人の手入れでずっと護ってきたからこそ
我々が今もその梅酒を頂ける。

やはりそれは凄い事ですよね。



越生梅林には、650年前の古木「魁雪」を始め、白加賀、越生野梅、紅梅など様々な種類の梅の木があります。



弘化元年から創業する佐藤酒造店は、越生梅林園のすぐそばで、「魁雪」と言うブランドの日本酒を醸す時代もありました。

今でも「内緒」ですが、醸造蔵に「当時の面影を遺す「魁雪」の酒樽をリメイクしたものがあります。

佐藤酒造店の今の日本酒銘柄「越生梅林」
と言うブランド。
(この名前のエピソードは、また別の機会にお話ししますが)

越生梅林園のすぐそばで、ずっと梅と縁のある佐藤酒造店だからこそ名乗るに相応しい名前であり

「越生梅林 梅酒」は越生梅林園のそばで今までも
そしてこれからも、生き続ける「佐藤酒造店だけが名乗れるブランド」です。

「越生の梅を使用」とは意味が違うのです。
それは単なる梅酒を作るどこかの酒蔵のひとつと意味が違うのです。

ちなみにGoogle検索で
「梅酒」「酒蔵」「埼玉県」と入れると
「佐藤酒造店」が1番で出てきます。
(皆さん凄いなぁ。よく知っていらっしゃる)



全く宣伝していない家族経営の
醸造する蔵人も入れて直売所の販売も含め
全員で7人しかいない小さな蔵の偉大な梅酒ですね。



今回は「梅の花見」「越生と言えば」の少し歴史編です。

私が越生梅林の梅を見ていつも想う歌です。

越生町の梅の木は室町時代(1350年頃)、九州の太宰府から現在の梅園神社に分祀した際、菅原道真(すがわらのみちざね)にちなんで、梅を植えたのが起源であると伝えられています。




菅原道真は平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家です。
政治家として実績を重ね、時の天皇・宇多天皇に厚く信頼されました。また、幼いころから学問や和歌、漢詩においても優れた才能を発揮しています。

優秀な政治家でもあった道真ですが、こころざし半ばで無実の罪で九州に左遷されてしまいます。

梅の花をこよなく愛した道真が、京都を去るときに作った歌

「東風吹かば においおこせよ 梅の花 あるじなしとは 春な忘れそ」

こちふかば にほひおこせよ うめのはな あるじなしとて はるをわするな


(春になって)東の風が吹いたならば、その香りを(私のもとまで)送っておくれ、梅の花よ。主人がいないからといって、(咲く)春を忘れるなよ。

と言う意味です。


この歌の出典は、『大鏡』。
『大鏡』は、平安後期の歴史物語です。歴史物語のなかでも傑作との呼び声が高い作品なのです。
『大鏡』は、嘉祥3年(850)~万寿2年(1025)の176年間について記述されています。
物語は、3人の登場人物による座談・問答の形式で進められています。

この試みは、歴史を多角的に、かつ公正に捉えようという意図によるものであったと言う事が当時画期的でした。
そのなかでもこの「東風吹かば…」は特に有名な歌
でした。

拾遺和歌集の詞書には、「右大臣であった菅原道真が、太宰の権の帥府に任命され、太宰府へと左遷されなさったとき、家の梅の花をご覧になって詠んだ歌」と正式に記されています。

歴史に残る歌なのです。



学者の身分でありながら、宇多天皇、醍醐天皇の信任を得て、右大臣にまで昇り詰めた菅原道真のことをよく思っていなかった、
左大臣 藤原時平をはじめとするアンチ菅原道真派の策略により、菅原道真は太宰府へと左遷されることとなりました。

このとき、天皇は宇多天皇からその息子の醍醐天皇へと譲位されています。醍醐天皇の治世でも出世を続けた菅原道真でしたが、宇多天皇の退位により最大の後ろ盾を失ったことが、左遷を防げなかった大きな理由でした。

ちなみにこの歌は、道真が自宅の庭にある梅の木に向かって詠んだ歌です。
当時の道真は、左遷で大宰府へ行くことになっていたのです。これからは直接見ることができない梅の木を想って、悲しい気持ちで詠んだと言われています。

この句の凄さは、後々の歴史によって刻まれていきます。

越生町の梅の花の歴史の根っこにある道真。

なぜ学問の神様である天神様に祀り上げられたのか?と言う事に繋がっていきます。

(諸説ありますが、)

道真の死後、京の都では異変が続出。
まず彼を死に追いやった時平が6年後に39歳の若さで死去し、気象は荒れ放題で都では旱魃や飢饉が続きます。

さらに死後20年後の923年に皇太子の保明親王が亡くなります。
930年には左遷を認めた醍醐天皇までもが急死し、誰もが「道真の怨念」の怨霊は「御霊」と呼ばれるようになり、恐怖が貴族たちに蔓延します。

そこで、霊を鎮めるための御霊会が始まる。と言う説です。
それは次第に公のものとなり政府が主催する天暦元年(947)には京都の北野に神殿が建てられ天満天神として奉られるようになります。

時代を経るにしたがって、菅原道真が多くの学者を輩出したこともあり、学問の神様に変化していく。彼の才能が後々認められ書道や文学の神様としても崇められるようになって
失脚させられ無念の波乱の人生を歩んだ道真は、
その後没落していく藤原氏とは対照的に、

1000年以上の時の中を生き続け、
21世紀の現代でも学問の神様として
毎年受験生たちの心の支えとなっている。

と言う壮大な世界観があります。


「東風吹かば においおこせよ 梅の花 あるじなしとは 春な忘れそ」

「東風」では、寒さが和らぎ、梅が花開き…春先の風景が目に浮かびます。
「匂ひおこせよ」と呼びかけているところからは、なんともいえない悲しさが漂ってきます。

それまでは、自宅の庭から梅の花を堪能していたのでしょう。しかし、それももう叶わないのです。
「あるじなしとて」は、道真の無念が最も強くにじみ出ている一節と捉えられるでしょう。
「春な忘れそ」と、梅に呼びかけているわけですが、どこかに自分のことも忘れないでほしいという願いもあったのかもしれません。



この句は、いろんな解釈がある素晴らしい句です。
だからこそ菅原道真の凄さがあると思います。

健気に、寒さの中に咲く梅の花の心。
春の風を待つ想い。

日本に誇る梅の風情。
その菅原道真の時代に植えられた650年以上の古木も
現存する越生梅林園に赴き
佐藤酒造店に立ち寄り

やはり、越生梅林 梅酒を飲みながら嗜みたいな。と
梅の時期が来ると思います。





佐藤酒造店のかっちゃんから
私に写真が届きました。
メジロと梅の花。

ウグイス色の身体と惚れ惚れしてしまうような鳴き声を持っている素敵な鳥です。

日本を代表する小鳥と言っても過言では無いくらい有名な小鳥ですが、スズメやカラス、ハトのようになかなか簡単に私達の前には姿を現してくれません。

花の中でも梅の花が一番好きと言われており、メジロと言えば梅の花と連想される方も多いでしょう。

メジロは梅の花密には目がなく、3月頃には梅の花を探しまわっている姿を捉える事も出来ます。

そして、その時期は梅の花に夢中で警戒心がいつもより緩い為に、メジロを観察する絶好のチャンスとも言えます。

うーーん。普通に。梅の季節って良いですよねー。笑顔

初春の梅に飛来して春を告げるメジロ

越生梅林の春。縁起が良い写真。かっちゃんありがとうございます。

朗報です!
佐藤酒造店のお酒が
オンラインで買えるように、なりました。
公式HPのサイトです。是非一度お立ち寄り下さい。

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