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子育ては、とりあえず子供をばかみたいにかわいがっとくのが最強だ。

トラウマ療法2日間のトレーニングに出て、
昨日は心理士ひろさんと、嵐の中みなとみらいでこってり話して、
色々思うところがありすぎた3日。

で、今思っているのは「教育」のことだ。

私もムスメが中学一年の年度末に差し掛かっていて、
なんてことない公立校の中1の周りでも
受験に向かってなんとなくざわつき始めている。


親は、子供の将来の「安泰」のために良かれと思って、
勉強させたり、「良い」学校に入れたりしようとすることに
エネルギーを注ぐ。
それは多くの場合、愛であろう。
あるいはそのことを愛だと、思っているだろう。


が、思うのだ。
というか、この20年ほど、いろいろな支援的なものや、
能力開発的な場面に関わったりすることによって見てきたものを総合的に振り返っての実感。

子育ては、とりあえず子供をばかみたいにかわいがっとくのが
最強だ。

受容的とかあるがままとか、
そういう知的臭いことは一切忘れてもらいたい。
ムツゴロウさんが子犬をわしゃわしゃするように
ただばかみたいに我を忘れてかわいがるのだ。
かわいい、だからかわいがる、シンプルに行こう。

親は不完全であるという事実も十分に伝えながら、
一緒に怒ったり泣いたり間違ったりこじれたり仲直りしたりして、
一筋縄ではいかない人生をともに生々しく味わって、
ともに成長すればよいのだ。

関わり方に正解や理想があるという幻想と、自分のやり方をその理想論との差分で評価するような態度は、とっとと捨てた方が良い。
世の中優秀な人が目に付くが、
そんなものはSNSが仕掛けた、イデア界にしかない幻影だと思っておこう。

わっちゃわちゃしながら、ひとまず、親ばか上等で
ひたすらかわいがっておこう。
全く知的な感じがしないが、
これでしか育たない神経基盤というものがある。

ここをすっとばして、「良かれと思って」やることのあれこれは
肥料をあげすぎてやがて根腐れして大人になってから、
妙に生きづらい・・となる道へ続きがちだという、
これ臨床的実感。

自分を確立することはもちろん大事だけれど、
子供の頃は特に、自分と他者や環境との境がむしろほどほどに曖昧で
なんだか大きなものに包まれて、自分はその中に
溶け込んでる一部なのだな〜^^ぽわーん〜^^
みたいに、個の感覚は濃すぎないほうがいいのではないだろうか。
生き物性の観点で言えばむしろそれはただの事実でしょう。
この感覚がすくすくした土台を育てる。

これこそ、AIだの何だの、行き過ぎた個人主義に
ますます孤独の病が深まりそうな時代において
最強の財産だという気がするのだ。

安心感は、人生の可能性を支える皿である。
そしてそれは、外的条件によって作られるものではなくて
とても感覚的、すなわち身体的なものなのだ。

わたしはできれば子供は野山でもっと走り回らせたかったと思う。
野山を走り、その辺で取れたものを食べ、
3世代ぐらいの人とともに暮らし、めちゃくちゃ可愛がられる。
そんなふうに人生の初期を味わっていたら、
優秀な人になるかはともかく、
なんだかかんだ自分の幸せを見つけられ人も支えられる、
そんな感じの人になると思うのだ。

というのが私の20年ぐらいの臨床経験、
及び48年の人間界フィールドワークから得た所感ですが
みなさまいかがでしょうか。
Xとかに書いたらめちゃ炎上しそう、笑

ついでに付け足すと、
PERFECT DAYSを2回見ましたが、
この映画がヒットしたり、「平山のように生きたい」
というキャッチコピーがつけられることの背景には、
感覚的なものを獲得しそこなったまま、
知的になりすぎてしまたオレたちの悲しみがあるのだと感じました。



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