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オフ→テラリウム→フラ。そしてフラから考えた学ぶということ。

Facebookが私の公式サイトと、BASEのURLを「いかんコンテンツ」と認識していてアップできないので悔しくて日記のプラットホームをnoteに移します!^^

今日という1日の日記。11/25。

3日のオフ(※対外的な仕事をあまり入れていないという独特のオフの定義)の中日。こういう日に限り、おじょうさんの学校は特別課題で13時下校などと言ってくる。もう・‥と思っていたがよく仕事をしに行くカフェで、クリスマスのテラリウムを作るワークショップがあるというので2人で参加。

私は娘と遊びすぎているような気がする・・・。
小学4年生。一人っ子とはいえこんなにママと遊んでいてよいものだろうか。でも今が旬!反抗期もまだ手前で、お買い物行ってもカフェ行っても、女同士、楽しい。

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参加者はわれわれだけで、先生もお店も総動員という感じでおもてなしを受け、テラリウムもかわいらしく出来上がり、親子ともども大満足。

しかし驚いたのは、そんなにしょっちゅう行っている訳ではないのに店員さんに、「よく仕事に来る人ですね」と認識されていたということだ。接客の人ってすごいな・・・。

その後、おじょうさんは造形の教室へ。
私は一年ほどなんちゃってで続けているフラのレッスンへ。

ぬるいマインドで続けているので全然うまくならないが、クラス全体がほのぼのしていていい感じの時間なのである。へたっぴでも、ふと瞬間的にフラの時空にチャネリングのように接続する瞬間があるのを感じるたびに、やはり「型」というものには何かが宿っているのだなと思う。

ボディーワーカーとしては、美しいフラの先生の、あのフワッとしたスカートの下の足腰の動きが全く見えないのが非常に惜しい。多くの情報が欠落した状態で身体動作をコピーしなければいけない状況にモヤモヤして、

「先生、そのスカートの下でそのステップの時骨盤は前傾しているんですよね?」

などとめんどくさい質問をしばしば繰り出す。

先生「いえ、真っ直ぐおりてるの、骨盤は」

わたし「・・(はて)」

と、解剖図などと睨めっこしていて、スカートの下の足腰の解剖学に想いを馳せるが納得いかないまま一年弱が経過した頃、ある日先生がわたしの熱烈リクエストに答えて、あのスカート(パウスカートという)ではなくピッタリしたパンツで来てくれた!

そしておもむろに例の基本ステップを踏んでもらうと・・・

思 い っ き り 前 傾 し と る よ 先 生 。

わたし「あ、あの、先生、やっぱり骨盤前傾してますよね ^^;」

先生「(そお?という顔でしばし踊る)」

「・・・あ!ほんとだ、前に傾いてますね!」
「あ、ほんとだー!(踊る)ほんとだー!笑」
「よし今度から、若干前に傾くんだよって教えてあげられるね!ありがとう❤️」

喜んでいただけてよかったが、なんだったんだ、ネッター(解剖書)とにらめっこしていた日々。


このように、何かを誰かから学ぶときは注意が必要だ。
本当に重要なことは、すっかり身体化されてしまっていて言語化されていないことが多い。しかも、型の解剖学など無粋なことは追求されていないことがほとんどだ。何かを何かたらしめている要素というのは、それが本質的であるほど言語ですくい上げられるような性質でないものであることが多く、それゆえコード化されていない。

多くの技法が、レクチャーではなく、徒弟制度のようなものを組んでいるのは、見て、共にいて、その響きごとコピーしていくことでしか師匠に近づけない領域というものがあるからだろう。技法以前の、当然のように師匠がたどっている世界観やものの見方、大原則。いくら技術をコピーしても、多くの弟子が「師匠のように」なれないのは、このコード化されていない部分に如実にセンスの差が出てしまうからだ。

学ぶ者はこの、師匠が見ている世界、というものにあらんかぎりの想像力を働かせ、それを見ようとし、そこから全てをスタートしてみようとすることで、技術でコピーできる領域を超えて行くのだろう。

ボディーワークでも、すごいと言われる技術を学びにいくと、たいてい創始者しか出来ないものだったりする。

でも、「こうして、こうして、はい、こうやってご覧、そうそう」
などと言われて「いやいっこも分かんないけど?」と思っても、一定期間その先生と共に同じ空間にいて、その先生の所作や雰囲気を見ていると、帰るといきなり出来るようになっていたりするものだ。

学ぶというのは、とても身体的なことなのだ。

と言う訳で、
昔吉本ばななさんがいつも日記で
「フラフラでフラに行く。自分の踊りがあまりにもヨレヨレで笑っちゃうけど、先生も生徒さんもかわいくて癒される」と書いていたのが、一言一句激しく分かるわ今なら!と思いながら、この日も、コード化されていないフラの原理原則を全身でセンサリングしながらヨレヨレと踊る90分であった。

造形教室を終えたおじょうさんと合流して帰宅。彼女が書いてきた水彩画がすばらしくて舌を巻く。

彼女もまた、プロとともに過ごすことで、響きのレベルで習得しているものがあることを感じた。ただの親バカかも知れないが^^








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