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韓「南陽割譲」の新解釈と「騰=辛勝」説

鶴間和幸先生の著書「始皇帝の戦争と将軍たち」を読み終えました。

大変読み応えのある内容で、特に始皇帝の「近臣集団」、つまり秦の将軍や文官たちが始皇帝に与えた影響や始皇帝との関係性について、良く理解することが出来たと思います。まだ読んでない方は、ぜひ読んでみてください。

今日は、キングダム本誌で活躍中の騰(とう)について少し書いてみたいと思います。まずは前述の鶴間先生の著書から引用します。

秦の将軍・騰(とう)

騰(とう)(生没不詳)

秦は始皇一六(前二三一)年に韓から土地を献上され、騰という人物に治めさせた。騰については姓氏がわからず、謎の人物である。近臣の高官は秦王に対して姓氏を出さずに名だけを称して忠誠を示していたため、騰も秦王に対して臣騰と言った。

始皇一七(前二三〇)年、内史の騰が韓を攻め、韓王の安を捕らえ、韓の領土には秦の占領郡が置かれた。こうして韓は六国最初に滅亡することになる。

秦の本土の畿内を治める内史の高官が、なぜ韓を攻めたのであろうか。韓を滅ぼすという大役を、なぜ内史に任せたのだろうか。他の例だと蒙恬(もうてん)将軍も、のちに斉を攻撃して統一すると内史となり、三〇万の兵士を率いて匈奴(きょうど)と戦った。内史の騰も、将軍を兼任して隣国韓を攻めたのであろう。(中略)騰は、韓滅亡をめぐる重要な人物であったと考えられる。かれの行動が、秦が六国を服属ではなく滅亡させていく方向に軌道修正させた可能性はあるだろう。

「始皇帝の戦争と将軍たち」鶴間和幸・著


重要な人物であったにも関わらず、残されているデータが非常に少ないので、騰は謎の人物とも言われます。騰についてはさらに後述します。

「南陽」割譲の新解釈

詳しくは著書を読んでもらいたいのですが、この中で鶴間先生は「韓が南陽を秦に割譲した」部分の新解釈を披露しています。

・これまで韓は南陽を秦に献上したと解釈してきた。
・新たな情報を得てやはり解釈の修正が必要だと考えるに至った。
・韓が土地を秦に献上して服属の意志を示しながら、それを無視して韓王をいきなり捕縛して国を滅ぼすのは、秦であっても戦国時代の外構の大義に反している。
・秦が韓王を捕縛して国を滅ぼした正当性について回顧するくだりがある。
・それによると韓王が土地を献上し王の印璽を差し出して藩国になろうと請うたにもかかわらず、約束に背いた。
・このように韓側に信義に反する行為があり、この件に関して騰が関わっていた可能性がある。

「始皇帝の戦争と将軍たち」鶴間和幸・著


鶴間先生は「南陽は既に秦に割譲されていた。にもかかわらず、韓側に信義に反する行為があり、韓王を捕縛するために騰が動いた可能性がある」としてます。

ここでも、実際に騰がどのような行動を取ったのかは分からないままなのですが、どうやら韓が滅ぼされた原因が一悶着あったように思えてきます。つまり、始皇帝はむやみに韓を滅ぼす行動を取ったわけではなく、「致し方なく」滅ぼす方向に舵を切ったようなニュアンスが伝わってきます。

そうなると、始皇帝という人物の再評価も必要になりますよね。頭ごなしに六国を滅ぼしていったわけではなく、韓とのやり取りがきっかけになって滅ぼすベクトルに向かわざるを得なかったという解釈も成り立つ気がします。そして、そのきかっけに関わっていたのが秦将・騰なのです。

騰=辛勝?

ここで鶴間先生の著書から一旦離れたいと思います。

紀元前227年、秦王・嬴政の命令で、燕の国討伐を、王翦とともに命じられた辛勝という人物がいます。この辛勝、『新唐書』の「宰相世系三上」の中で「辛」という姓の出自を述べるくだりの中で、「辛騰」と書かれているのです。

辛氏出自姒姓。夏后啟封支子於莘,「莘」「辛」聲相近,遂為辛氏。周太史辛甲為文王臣,封於長子。秦有將軍辛騰,家于中山苦陘。曾孫蒲,漢初以豪族徙隴西狄道。

(直訳)秦に将軍辛騰があり、中山国苦陘県(現在の河北省定州市邢邑鎮)に家があった。曽孫の辛蒲が漢初に豪族として隴西郡狄道県(現在の甘粛省臨洮県の西南)に移住した

『新唐書』「宰相世系三上」より


本来は「辛勝」であるべきです。ところが「勝」が「騰」になっています。単純に書き間違えただけなのか…と考える方がいるかもしれません。

書き間違い…とも言い切れなくなってくるのが「資治通鑑」の存在です。中国北宋の司馬光が1065年の英宗皇帝の詔により編纂した歴史書が「資治通鑑」です。この中に面白い記述があります。

「十七年内史勝滅韓」
(直訳)始皇17年に内史勝が韓を滅ぼした

「資治通鑑」より

今度は「騰」が「勝」になっているのです。つまり、辛勝とは騰のことではないか、という説です。もし辛勝=騰であるなら、騰は韓を滅ぼした後、王翦と共に燕攻略に向かうということになります。

始皇二十年 而使王翦、辛勝攻燕
(直訳)始皇20年、王翦と辛勝が燕を攻めた

「秦始皇本紀」より


新たな発見がないと現時点では騰=辛勝を完璧に裏付けることは出来ないのですが、個人的には騰=辛勝だったと考えてます。南陽守に任命され、内史でもあり、将軍でもあった騰という人物は、始皇帝が最も信頼していた将の一人ではないでしょうか。新たな発見、新たな解釈は、ロマンがありますよね。ワクワクしますよね。

長くなりましたが、お読みいただきありがとうございました。他の記事は下記からご覧ください。


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