秦の趙攻略の経過と殷周伝説

今日(2021年10月24日)、NHKでのアニメ・キングダムを楽しみにしていたのですが、番組表を見るとどうやら放映が無いようです。夜ふかしの楽しみが減ってしまいましたが、気を取り直して漫画キングダムのおさらいを。

秦による趙攻略戦の、1つの見せ場が終わったところです。「桓騎の命令による趙兵10万の斬首」です。戦死者と斬首者の内訳が分からないのですが、これが「平陽の戦い」の最も大きなエピソードとして史書に書かれています。

ただ、これで「平陽の戦い」が終わったわけではなく、まだ平陽城も落ちてません。桓騎が趙の宜安・平陽・武城の3城を落とすのは、翌年(紀元前233年)です。扈輒を討ち取ったのが紀元前234年の何月なのか分かりませんが、いずれにしても桓騎軍は史書によると平陽から一度太行山脈を越えて秦領に戻り、紀元前233年に再び趙への侵攻を開始するのです。

詳細は過去の記事にも書きましたが、桓騎の足跡を改めて時系列で記載しておきます。

①紀元前237年、秦の将軍になった
②紀元前234年、趙・扈辄将軍を殺害、兵士10万を斬首した
③紀元前233年、上党から太行山脈を越えて趙に侵攻、趙の将軍を殺害。赤麗と宜安(現在の河北省石家荘市藁城区の西南)を支配
④肥下(宜安東北部)で趙・李牧と対峙し大敗
⑤紀元前229年、桓齮は王翦に続いて趙に侵攻するも、李牧に敗れて死亡

これも過去記事に書いたのですが、邯鄲は古来より天下有数の要害でした。やはり李牧を邯鄲に入れてしまうと、もしかしたら秦は趙を打ち負かすことが出来なくなるのではないか…賢い桓騎はそう考えたと思います。

結果的に李牧は桓騎に勝つわけですが、このシーンは李牧の凄まじさを最も印象づける戦いになるのではないでしょうか。そしてその後、さらに李牧を超えてしまう王翦がいるわけなのですが…

それにしても、古代中国の人物は非常に魅力的に映ります。今、横山光輝先生の「殷周伝説」を読んでいまして、時代的には紀元前1,100年くらいでキングダムの時代よりもさらに800年以上古いのです。それでも、呂氏の始祖である呂尚(太公望)は本当に魅力的であるし、周の文王の亜父として統一に向かう姿は、嬴政の仲父として補佐し続けた呂不韋にも重なってくる部分もあります。呂不韋は史書では悪役っぽい立ち位置にされてしまいましたが、それでも、時代の傑物だったことに違いはありません。

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