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考察|呂氏の痕跡を周王朝まで遡る

前回の記事に続いて、王朝ベースでの呂氏の痕跡を辿ってみます。今回は周王朝です。

殷に滅ぼされた夏

前回の記事内でも少し触れましたが、夏王朝・禹を補佐していたのが姜子牙(呂尚)の祖先でした。その後、殷の暴政が始まり、夏王朝の都市はことごとく武力によって制圧されていきます。

河南省にある望京楼遺跡では、殷による破壊と虐殺の痕跡が発見されています。

殷の存在以外にも、夏王朝を統べる人材が乏しかったという面もあるでしょう。まだ政治的統治のプログラムが確立していない時代なので、圧倒的な武力の前には屈服せざるを得なかったと思います。

この殷の暴政に立ち向かったのが周です。

周を補佐した呂尚

周の武王の時、殷を倒すために武王が号令をかけます。

「ああ、わが国の諸侯以下もろもろの役にあたるものたちよ。また、よくもはせ参じた庸、蜀、羌、髳、徴、纑、彭、濮の人たちよ。汝らの弋をさしあげ、楯をならべ、矛をたてよ」

(『漢民族の源流を探る』P92より引用)

この時、周の戦力は兵士4.8万人、戦車300。羌をはじめとした多民族による戦力はなんと兵士50万人、戦車4,000にも上ったという。この軍隊を指揮したのが、太公望こと呂尚です。

呂尚を軍師・総指揮官とする周連合軍が、牧野の戦いで殷を破ります。この功績により、呂尚は斉(山東省淄博)に封じられ、斉の祖となったのです。多くの羌族出身者がこれに従ったことは、想像に難くありません。

そしてこの時、羌族は下記の地にも封じられています。

●許(河南省許昌県)
●申(河南省南陽県)
●紀(山東省寿光県)
●向(山東省莒県)
●州(山東省東平県)
●萊(山東省董県)…今は無い?
●厲(湖北省随県)
●彰(山東省東平県)
●呂(河南省南陽県)

これが呂氏の拠点になっていくわけですね。山東省の斉はもちろん、河南省に勢力を持っていること、そしてその河南省で呂不韋が生まれ、封地として洛陽にいたことも繋がってきます。

古代中国において、いかに羌族が主要部族であったかが分かる事実かと思います。漢民族から弾圧を受けるまでは。

この弾圧については、下記記事をご参照ください。

周と羌族の密接な関係

周の先王の一人である古公亶父(ここうたんぽ)、妻は太姜(たいきょう)と言って羌族でした。

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前述の周・武王の妻も、邑姜(ゆうきょう)という羌族でした。

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他にも、3代・康王の妻…王姜、5代・穆王の妻…王俎姜、7代・懿王の妻…王伯姜、9代・厲王の妻…申姜、11代・宣王の妻…姜后と、羌族の妻を正室としてきました。

周王族と羌族は通婚族であり、密接な協力関係にあったからこそ、羌族が全面的に周王朝をバックアップしていたと考えられます。

のし上がった呂氏

ここで一つ考察です。

羌族は表舞台に立つというよりは、「補佐」的な役回りが多かったように思います。補佐をしているうちに、中華全土の産物・山河に渡る道、鉱物などを知るに至り、一子相伝ではないですが一族相伝のナレッジが蓄積していったのではないかと。とりわけ呂尚の影響が大きく、結果的に呂氏が財を築いて行ったと思います。

呂不韋は一介の商人から相国に登り詰め、また、自らの子・嬴政を一国の主に仕立てた。形は違えど、呂雉も、高祖・劉邦の妻として中華統一を補佐した。呂尚、呂不韋、呂雉…補佐しつつのし上がるという点においては、呂氏のオハコだった気がします。

その裏にはやはり財力があった。その財力を培う呂氏(羌族)ネットワークが、日本に及んでいてもおかしくない。そう考えると、やはり文化・知で人・モノ・金を取り込んでいくやり方を、日本で徐福が担っていたと思いたくなるわけです。知の集大成が、呂氏春秋であることは間違いありません。

今日はここまで。お付き合い頂きありがとうございました。


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