意識と無意識をつなぐ通路ー東浩紀「想像界と動物的通路」を読んでみた
MV『人は夢を二度見る』(乃木坂46)では絶望と希望をつなぐ通路がビジュアル化されていることを記事にしました。
これ↓
絶望と希望をつなぐ抽象的通路。
抽象的通路といえば東浩紀「想像界と動物的通路ー形式化のデリダ的諸問題」(2000年)(『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』河出文庫に収録)でしょ、ということで、改めて読んでみました。今回はこの論文をご紹介します。
課題
東の問題設定は以下のようなものです。
デリダは、ハイデガーがナチスへ加担したことは理論的に必然だったと考えています。東はデリダのこの言葉から、ハイデガー、ラカン、デリダの三者関係を再考します。
形式化の欠陥
ハイデガーは人間中心主義から脱出します。人間を存在者総体(世界)産出システム(現存在)と考えます。この定義によって理性などのような人間の性質を考える必要がなくなり、存在者総体がどのように存在しているのかという構造の解明に集中できるようになります。
ではその構造はどうなっているのか。
人間は確かに世界を産出します。しかし同時に世界の一存在者でもあります。ここから人間はオブジェクト・レベル(存在者)とメタ・レベル(存在者を存在させている根拠)とに同時に位置することになります。人間はこのように二重の存在、論理的に一貫していない存在であるということになります。人間とは論理の世界と矛盾で構成されたシステムというわけです。
またハイデガーは以下のようなテーゼを提出します。
石は世界がない
人間は世界を形成する
動物は世界が貧しい
石は世界がないとはオブジェクト・レベルの存在者を、人間は世界を形成するとは、人間のメタ・レベル的側面を指します。人間はオブジェクト・レベルにも属し、メタ・レベルとオブジェクト・レベルを往復します。
では、動物は世界が貧しいというテーゼをどう考えればよいのか。オブジェクト・レベルとメタ・レベルに世界を分けたはずなのに、どうもそこからはみ出しています。二つのレベルの中間を認めることはできないのでしょうか。仮に認めた場合、せっかく性質を考えなくてすむよう形式化したのに、性質を考えざるをえなくなります。石、人間、動物の違いは程度問題になってしまうので。これは人間中心主義に戻ってしまうということです。ではなぜこのような事態になるのか。もしや形式化にはそもそもこのような欠陥が含まれているのではないか。
欠陥とはどういうことか
デリダは人間と動物の違いを説明します。人間はそのもの「として」の存在者に接近するが、動物にはそれは不可能だといいます。つまり動物には概念がない。ということはハイデガーの形式化は動物を排除している。人間はオブジェクト・レベルとメタ・レベル往復しますが、概念がなければ往復はない。逆に概念があれば往復せざるをえなくなる。
ハイデガーの有名なことばが思い出されます。
人間は森を通り抜けるとき、それを「森」として「森」という言葉を介して経験する。ここで謎がひとつ明らかになります。ハイデガーの形式化とは、世界が言葉で覆われていることが条件だった。
ハイデガーの形式化は矛盾を孕んでいました。それは世界が言葉で覆われていることから帰結します。つまりハイデガーは言葉を介さない経験、動物的経験を排除します。そして人間中心主義に陥って、ナチスに加担することにつながった。
以上を踏まえ、東は、このハイデガーの陥穽を回避するにはどのような論理と分析装置が必要か、と論を進めます。
イメージを補う
東はラカンを参照します。
「無意識は言語のように構造化されている」。これはラカンの有名なテーゼです。無意識では欲動は言葉(シニフィアン)に代理される。この無意識的運動を規制するシステムをラカンは象徴界と名づけます。人は幼児期にはイメージの世界(想像界)にいます。ここでは主体性はまだ生じていません。想像界には現前しかないので欠陥=陥穽がありません。主体になるためには、欠陥を認識するために言葉を導入します。この欠陥を処理できるようにするために、欲動運動に絶対的欠陥を想定します。その欠陥によって欲動=言葉が整流され、象徴界にまとめあげられます。
デリダは批判します。言葉には概念のような理念性と文字(エクリチュール)としての物質性があり決してまとめあげられないと。ラカンは物質性を、つまり分割されたり行方不明になったりする可能性を考慮していない。代わりにデリダは欲動を文字で代理します。これによって欠陥を想定する必要がなくなります。欠陥ではなくそもそもはじめから、細分化され、行方不明になるものだった。
再びラカンを参照します。
ラカンは世界を
象徴界(言語世界)/想像界(イメージ世界)/現実界(モノ自体)
にわけます。これについて東はあまり整理されていないと言います。原因はこの分割が二つの原理に導かれたことにあると指摘します。象徴界/現実界の違いは形式化とその限界を指しています。ハイデガーの形式化・矛盾と重なります。いっぽう象徴界/想像界の違いは曖昧です。幼児期は想像界に満たされていますが、成長ともに象徴界に参入していきます。この曖昧さは、ハイデガーの人間と動物の関係に重なります。世界を象徴界/想像界に形式化したのに厳密にわけられないため、二つの違いは程度問題になるというわけです。つまり、やはり人間中心主義に陥ってしまうということです。ラカンの形式化は想像界を排除しましたが、ラカンのテキストに何度も再来します。ハイデガーの動物とラカンの想像界は重なっている。
ラカンの考えでは、人間の想像界には欠陥があります。幼形成熟で失った創造的関係を象徴界で補っている。人間の知覚は言語による命名によってのみ維持されます。欲動の対象をイメージから言語へ移動させることによって対象の同一性を担保できるようになります。
文字という通路
デリダの場合は、知覚は文字によってなされるがゆえに同一性を維持できません。常に誤解可能性があります。たとえば判じ絵。判じ絵は「絵」の意味とヨミの「音」が重なったものです。この重なりが異なる解釈を産出します。(つまり矛盾が産出します)したがって東は、象徴界と想像界をたえず往復することによって、想像界で分割された欲動を象徴界でまとめあげるような運用を把握できる分析装置が必要という。その分析装置が文字なのです。文字とは形式化や象徴界から排除したものを取り戻すもの、つまり象徴界と想像界を短絡する通路のことなのです。だとすれば私たちはラカンの形式にデリダの文字を導入して再解釈することによって新たな思想的領野に辿り着けることができるのではないか。
以上、「想像界と動物的通路」をまとめてみました。
MV『人は夢を二度見る』(乃木坂46)では絶望と希望をつなぐ通路がビジュアル化されていました。その通路はひょっとしたら希望と絶望だけではなくて、象徴界(意味、精神)と想像界(文字、身体)をつなぐ通路にもなっているのかもしれません。そういえばMV冒頭、主演俳優二人が分身し、途中で再統合されていました。再統合後の主演二人は文字を表現していたのかもしれません。文字になる。つまり身体をとりもどすことによって象徴界の陥穽から抜け出し希望に至る。
実はひそかに思っていたのですが、『人は夢を二度見る』の監督である丸山健志は、もしかしたらデリダを参照しているのではないでしょうか。
知らんけど。