教育を原体験で語るな

「教育を原体験で語るな」

 この言葉は、とある大学の先生のお言葉。私が教科書編集者として駆け出しの頃に大変お世話になった先生で、日本の教育行政のかなり中心に近い所にいる先生だ。その先生が、何かにつけておっしゃっていた言葉、である。

 教科書の編集をやっていた頃は、学校の先生と話す機会もそれなりにあった。たいていは既知の先生からの紹介だったり、営業が連れてきた先生だったりするので、みな一様に優秀な先生である。優秀だからといって素晴らしい原稿を書けるかというとそうでもないのだが、少なくとも授業は素晴らしい授業をする。人の親になって、我が子の授業参観で見た指導の惨憺たることといったら(あまり大きな声では言えないが、社内でも「お子さんは私立に行かせないの? 東京の公立の先生はひどいよ」と何度言われたことか)。
 中でも印象深かったのは、熊本のとある先生がおっしゃっていたこと。

「僕も若い頃は生活指導に一生懸命でね。ひとりでも多くの生徒をまっとうにしようとそればかりやってた。でも、あるとき、30位の頃かな、気がついたんだ。しっかりしたいい教科指導をすれば、その方が生徒は落ち着いてくるって」

 会議の合間の休憩中の立ち話。その会議にどんな先生がいて、何を話したかは全く覚えていないが、この言葉だけは覚えている。

 さて冒頭の言葉。
 「教育を原体験で語る」教員というのは、自分が受けてきた授業が最善であり、これを再現することに生きがいを感じているらしい。まあ、そもそも教員になろうというのは学校でいい思いをしたからに違いなく、学校生活に楽しい思い出がなければ再び学校に戻りたいとは思わないのが普通だろう。学校教育が始まったばかりの頃はいざ知らず、教員を志望する人ばかりが教員になる現代ではある種の均質化が起こっているのかもしれない(とはいえ、教員採用試験の競争倍率がこのまま下がり続けると、また風穴があくかもしれないが)。
 楽しかった思い出は、年月がたつにつれてキラキラと美化されていく。愉快だった学校生活、ためになった教科学習、ついでに我が身の糧になった部活動、すべてが至高の存在となり、目指すべきあるものとなる…。

 原体験が至高であれば、それについての学問と研究者は不要になる、などと揚げ足取りのようなことを言うつもりはない。あなたの体験が至上だと思ってますよね? と訊ねると、きっと原体験先生は「そんなことありません。まだまだ未熟ですから…」と日本的謙譲の美徳とともにのたまうに違いない。でもね、日本人って(よその国は知らないが)上の言うことを聞いているようで実は全然聞かない。いや、はいはいと聞いてはいるのだが、ちっとも実行しない。その証拠に、教育の情報化が叫ばれてもう数年、十数年、いまだに学校に端末もネットワークも普及していないではないか…。

 なんだか、どんよりしてきた。
 教育に限らず、「原体験で語る」人々の多さに、である。
 ああ、うんざり。

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