さぷ

「優しさ」の成分

有名な頭痛薬のキャッチコピーに、「~の半分は、優しさでできています」というフレーズがある。

初めて聞いたのは小学生の時だったが、私は率直に思った。

「じゃあ、優しさは?」
「優しさ」は何でできてるの?

数年に一度、思い出しては考えていた、「優しさ」の成分について、最近思うところがあったので書いてみたい。

「優しい」ってなんだろう

優しさの定義はすごく難しい。
目にみえず、数値で測れないものであるし、人によって表現方法も、露出の具合もさまざまだ。

広辞苑の1行目には、
「心温かく、思いやりがあること。」と表記されているが、「心が温かい」と「思いやり」もまた抽象概念なので、謎はさらに深まるばかりである。

しかし、たいがいの人は交際相手に「優しい人」を求めるし、
自分の子供にも「優しさ」のある人間になって欲しいと願っている。
名付けに「優」の字を使うことも、何十年も変わらず人気だ。

ここで言われている「優しさ」は、
他人に寄り添える、他人の心の痛みがわかる、他人の失敗を許容できる、
やわらかな態度がとれる、滅多に怒らずおだやかである、など、
攻撃性がなく寛容な人格や、コミュニケーションがなめらかである様を指しているように思われる。

だが一方で、優しさに関してよく出会う表現に、「あえて厳しくすることこそが優しさ」というモノもある。
ライオンの親は子供を谷に突き落として云々~や、可愛い子には旅をさせよ、といった表現だ。

これはコミュニケーションの取り方や、心の在り方に軸を置かず、相手にとって最終的に有益な示唆ができるか、という一点で優しさを判断している。

言い換えると、「時間差の優しさ」みたいなものだ。

その瞬間には、相手の不備を見透かすような指摘をしたり、あえてシビアな状況に追い込んだりするので、上記の「優しさ」とは真逆のかかわり方なのだが、
真意としては、このままいくとモロに壁にぶつかって困るであろう相手に試練を与えることで、ダメージを少なくしてあげようとしている。

この場合、仕掛ける人は一時的に「イヤな役」をかって出ることにもなるので、「あの人は憎まれてまで、君にイイコトをした、これこそ優しさだ!」という評価になる。

会社を辞めようと思ったときに、上司がそんなの甘い!と叱ってくれたおかげで頑張れました、みたいなことである。

構造自体を否定したくはないのだが、この「優しさ」は少なくない頻度でエゴイズムの隠れ蓑にもなる。

君のためを思って言っているのに~、よかれと思って言っているのに~、のように、「優しさ」を受け取らない側を責めたててみたり、過剰にありがたがることを強制したりする。

いくら将来的に有益な示唆であったとしても、相手に負担を与えることは「優しさ」とはちがうのではないだろうか。

「時間差の優しさ」で問題なのは、発信する側の価値観で「優しい」かどうかを決めてしまうことだ。

対人で発揮する優しさには、必ず「受け手」が存在しているので、ここを無視して押し付けてしまうと、たとえ本気で相手のためを思ってとった言動でも、結果的には迷惑行為になってしまうこともある。

「優しくする側」と「優しくされる側」

例えば、毎日同じテンションで「お疲れ様」と声をかけてくる近所のおばちゃんがいたとして、
急いでいるときには煩わしく感じるかもしれないし、
自分をほめたいような達成感を感じているときには誇らしく、
また、誰かに否定されて落ち込んだときには、ありがたく染みるのかもしれない。

おばちゃんの「優しさ」に変化がなくても、伝わり方がまるでちがう。

なので「優しい」という現象が成立するには、「優しくする側」と「優しくされる側」双方のマッチングが重要になってくる。

さらに言うと、受け取る側のそのときの「状態」以上に、「優しくする側」に対して、「優しくされる側」がもともとどんな印象を持っているのかが大きく作用する。

このおばちゃんを「裏では人の悪口ばかり言っているイジワルおばさん」と感じていれば、「お疲れ様」と言われても、そこまで好意的に受け取ることはできないし、
「とても親切で優しいおばさん」と感じていれば、声をかけてもらえたことが嬉しいだろう。
なんなら、ちょっと立ち話でもするかもしれない。

つまり、優しくする側の「優しさ発揮スキル」と同じくらい、優しくされる側の「優しさ受け取りスキル」が巨大な因子になっているのだ。

全力で個人的な見解なのだが、
私はこれこそが「気が合う」「ウマが合う」の正体ではないかと思っている。

性格や価値観、趣味やライフスタイルがまったく揃っていないのに、なんでか一緒にいて心地よい相手とは、「優しさ」のマッチングがよろしくて、発揮スキルと受け取りスキルの、レベルの食い違いが少ないのかもしれない。

「優しくない」と腹が立つ

ここで本記事のきっかけになった、一つのエピソードを紹介したい。

つい先日、私は腰を痛めてしまって、しばらく横になっても痛みが引かなかったので、夫に「湿布を貼ってよ~」と頼んだ。
夫は「え~めんどくさ~」と言いながら、薬箱から湿布を出した。

私は、「は?」と思った。

夫が残業してきた分、ひとりで娘の相手をし、座る暇もない家事の合間に、持ち帰った仕事もこなしているのに、「湿布を貼る」程度の頼みを、気持ちよく引き受けられないわけ?
てゆうか、もっと心配しろ。
妻が負傷しているのに、自分の「ちょっとしためんどくささ」の方が大事なんて、ひどい!優しくない!

こんな人だと思わなかった…モヤモヤモヤモヤ…
と不満絶頂の私は、夫の手から湿布をぶんどり、「いいです、自分でやります、めんどくさいみたいなんで」とめちゃくちゃ嫌な言い方になるように注力して言葉を投げた。

夫は「あ、怒ってる」と思ったのだろう、
「…痛いんでしょ、貼るよ」と控え目な嫌味風に応戦してきたので、意地になっている私は「ほんとにいいです、めんどくさいみたいなんで!」とさらに威嚇した。
夫はあきらめたのか、無言で寝室に向かった。

なんだよ!謝れや!と気の強い私は、さらに不満の炎を燃やすのだけど、これから寝かしつける娘の手前、仕方なく3人川の字で横になった。
「川」の1画目と3画目は、不自然に距離があいている。

そして娘に添い寝をしているうちに思いいたった。
「あれ、怒るほどのことだったかな。」

「優しさ」は交互じゃないと続かない

夫はいつも私に優しい。
なんでか。私が夫に優しいからだ。

どっちが先とかではなく、コロンブスの卵のように、私たちは「優しさのウマが合う」夫婦だった。

年中一緒にいる相手との「優しさ」は、一方通行では疲労する。
「優しさ」というのは有限で、持てる数に個人差はあるものの、「優しくする側」と「優しくされる側」を交互にやっていかないと、簡単に弾切れしたり、弾詰まりを引き起こす。

今回のエピソードを、もう一度冷静に思い出してみる。

私は、腰が痛くて疲れていて、夫に湿布を貼ってほしかった。
夫は文句をぼやいて実行しようとした。
私は「優しくない」と不満をもった。

うん。
「優しくない」の、私の方だね。

私は仕事から帰って休まずワンオペ育児だったので、夫に労わってほしい気持ちがあった。
でも夫だって、仕事から帰ってきて、休まずに家のことをして、私が横になる間も娘をみててくれてた。

この段階で、彼はもう「妻を優先して休ませる」という優しさを使ってくれていたのに、私は「気持ちよく湿布を貼って、心配もして!」とさらに優しさを連発することを求めていた。
これじゃあ、弾詰まりしても無理はない。

どんどん次を求める前に、まずは自分が「優しくする側」の役割を代らなきゃいけなかったんだ。

「休ませてくれて、ありがとう。助かったよ。でもまだ痛いから、悪いんだけど湿布も貼ってもらってもいい?」という言い方ができれば、
「大丈夫?ツラいね、貼るのここでいい?」と夫は言ってくれたと思う。

だって「優しい人」だから。
優しい二人でいるために、いつも交互だった役割を、私がサボったのがいけなかったのだ。

それにボヤきながらも湿布をとってくれたわけで、そこに感謝しなかったのも良くなかった。

「優しくされる側」は心地いい。
だけど胡坐をかいてしまうと、相手の負担は一気に上がる。

さっき休ませてくれてたのに、一方的に頼んでごめんね、感じ悪く話してごめんね、湿布取ってくれてありがとう…。
夫は笑って「俺もイヤなおもいさせてごめんね」と言う。
やっぱり交互じゃないと、続けられない。

どうして「交互の法則」を守れなかったの?

私が「優しさ発動スキル」を発揮できなかったからなのだが、
普段は夫に対してできているし、
優しくないから、性格悪いから、という回答にしてしまうのも味気ないので、いつもと違った要素を考えてみる。

ポイントは、「私は疲れていて、負傷していた」という事実。
つまり、優しさの大部分は、健康と体力でできている。と私は思う。

他にも、相手への感謝、リスペクト、優しくありたい自分像、社会動物としての抑制、道徳心、世間への建前…などなど、
さまざまな要素が混ざってはいるものの、「優しさ」という商品が陳列されていたとして、裏の成分表示の一番はじめは「体力、健康、それに伴う気力」と書かれている気がしてならない。

寝かしつけをはじめて、すぐに「私が優しくなかったな」と思い至れたのは、湿布を貼って横になれたことで、痛みが減ったからだ。
健康レベルが上がったので、優しさが復活したのだ。

「優しさを受け取る側」ばかりをやりたい、自分はそうする権利がある!という暴力的な考えは、虫眼鏡で覗いてみると、

疲れているから休みたい、
頑張ってるから褒められたい、
傷ついてるから慰めて、
痛みがあるから労わって、
とくかくしんどくて優しくされたい!

といった感情で構成されている。
これらはすべて、心身のオーバーワークが引き起こすエラーである。

優しくないから優しくできないのではなく、疲れているから優しくできないのだ。

なので、相手に対して、今日優しくないな、もっと優しくしてほしいな、という不満や不安を持ったなら、まずは自分は「優しくする側」のターンをしっかり終えただろうかと振り返る。

終えていてなお、相手が役割を代ってくれないときには、無理に「優しくする側」の打席に立ち続けなくてもいいと思う。

弾切れになるまで与え続けてしまうと、その関係性が定着するし、気づくと今度は自分が疲れ切って、他の人にも優しくできなくなってしまう。

恐ろしいことに、「この相手に優しくする必要などハナからない」と決めてかかってくる人も中にはいるので、必要以上に「自分の優しさが足りないから返ってこないのだ」と思いつめることもない。

結婚相手に限らず、努力では埋まらない「気の合わなさ」は、無念なことに存在している。
解決法を、私は知らない。

願わくば、ここまで読んでくれたすべての人が、「交互に優しくできる相手」とたくさんつながり、弾切れを起こすことなく、笑顔で日々を過ごせますように、祈りを込めて。


記:瀧波 和賀

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