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純粋にかなしむ

5歳の女の子が、両親からの虐待で命を落とすという、とても痛ましい事件があった。たまたま同じ5歳の子がいるからか、このニュースを目にしたとき、胸がしめつけられるような気持ちになった。

ニュースによれば、被害者の結愛ちゃんは、「もっとあしたはできるようになるからもうおねがいゆるして」と、ノートに書き残していたらしい。どれほどのつらさ・くるしさだったか。同時に、このような理不尽さに対するおぞましいほどの怒りもこみ上げてくる。

現実は、とても暗い。今回のように死亡に至るような児童の虐待は、いわば氷山の一角だ。厚生労働省の資料によれば、全国の児童相談所が受けた児童虐待相談対応件数は、年々増加を続けており、平成28年度は122,578件だった。このなかには誤認の事例ももちろんあるだろうし、相談に至らない事案も多々あるはずなので、これはいわば参考の数値に過ぎないが、それにしてもこの規模である。別の資料によれば、平成27年4月1日から平成28年3月31日までの間に、子ども虐待による死亡事例として厚生労働省が把握したのは、72例(84人)あるとのことだ。

これらの数字が教えてくれることは、今、日本中で子どもへの虐待は現に発生していて、これからも起こり続けるだろう、ということだ。そして、この問題は、複雑かつ構造的で、ショートカットな解決は転がっていない。

私が特に懸念するのは、加害者に対して、私たちが抱く憎悪と報復の感情についてだ。僕らのきわめて自然な感情は、虐待を加えた両親のことを、残忍な、人の心を持たない、悪魔、鬼畜、モンスターとみなすはずだ。そして、彼らには、その犯した罪に見合ったおぞましい報いと償いを与えなければ、きっと気がすまなくなる。

しかし、このような図式化は、それが仮に一面では正しいものだとしても、問題を解決からかえって遠ざけることになる。

親が子に対して手を下してしまう背景には、親自身が深刻な問題を抱えていることがあるはずだ。たとえば、職場のストレス、家庭での孤独、地域での孤立、貧困、病気、障害などが、本人の元々の気質や受けてきた養育や教育などとも絡み合って本人を苦しめ、そのはけ口が、たまたま、家庭内で最も弱い人に向かうのが、虐待なのではないだろうか(別のはけ口、たとえば、職場や電車内や路上でのハラスメントや暴力や痴漢などへ向かう場合もあるだろう)。

つまり、玉突き事故のような構造がここにはあるかもしれない。ひとつめの事故が、次の事故の原因になり、またその次の事故をも生んでいくという意味で。この構造的な事故を防止するには、手前をなんとかしたい。そのためには、親の抱えている問題と向き合い、粘り強く解決をめざしていく必要があるはずで、親をモンスター扱いすることは、そのような前向きで持続的で地道な取組みを、困難にする効果しかないだろう。

そして、つくづく思うのだが、僕らは、哀しい出来事があったときに、誰かを責めて、罰することで、哀しみを癒そうとしてしまう。誰も責めず、誰も罰せずに、ただ純粋にかなしむことは、できないのだろうか。

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