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ノイズ

※画像と本文は関係ありません。

昨日のマインドフルネスに関する投稿のつづきになるのだが、ちょっとしたすき間の時間の使い方や意識の向け方に対して、感覚が鋭敏になっていることを、昨日・今日と実感している。典型的なのは、やはり電車のなかの過ごし方で、いつもだったらスマホをひらいてFacebookの他人の投稿をなんとなく眺めつづけてしまったり、車内の広告をやはり意味もなくみてしまったりしている。自分のそんな状況にちょっとだけ早く気づけて、自分の行いを修正できるということに、ささやかな手ごたえを感じている。

いま改めて実感しているのは、それほど大事とはいえない情報に、いかに大量に、かつすき間なくかこまれて、私たちは生きているか、ということだ。こうしている今も、車内でふと目をあげると、ピンクのカツラをつけた渡辺直美さんと目が合う。彼女がすすめてくれる脱毛サロンには、私自身は興味も関わりもほとんど感じないのだが、彼女の圧倒的な存在感によって、どうしても目を奪われてしまう(それにしても電車のなかの脱毛サロンの広告の多さは、いったいなんなのだろう。これは、脱毛に無縁な私にとっても興味をひかれる話題だ)。

たくさんの情報に触れられることは、その処理・選別が適切に行われるかぎりにおいては、ありがたいことだ。しかし現実的には、私にとっての渡辺直美の広告のような明らかなノイズであっても、一回あたり一秒未満ほどの自分の注意をよそにそらすには十分な力があって、塵もつもればなんとやらで、それが自分の集中力や関心をそいで、脳を忙しくしてパフォーマンスを低下させているのだとしたら、それは由々しき問題だ。

ノイズは要らない、というわけでは無論ないだろう。そんな清潔な整いすぎた世の中は、かえって退屈だし、辛気くさい。外からの刺激の多くが一方向的で、受け取る側の関わりの程度が低いことが、気になっているのかもしれない。たとえば、同じ「きく」でも、耳を傾けて聴くこともあれば、ただ耳に音声が飛びこんでくるだけのこともある。そこにどれだけの意図や身体活動がこもっているかが大事なのだ。今の私は、流入する感覚刺激のしつこさにうもれて、いつしかアンテナの感度を下げて、漂うように生きてしまっているのではないか。

ところで、マインドフルネスの元祖といえば、グーグルのサーチインサイドユアセルフのプログラムだが、インターネットに情報の氾濫をもたらして、私たちの脳内に情報の過剰を引き起こした代表選手といってもよいグーグルさんでこのプログラムが生まれたのは、何とも皮肉なことでもあるが、同時に、同社の良心の現れともいえそうだ。

そして、こういう自分自身が、このブログでせっせとノイジーな情報を生産していることも、なんとも笑えない。最後まで読んでくださった方、ありがとうございます。

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