読書感想文「喬太郎のいる場所 柳家喬太郎写真集」橘 蓮二 (著)

 ただの喬太郎ファンブックではない。のちに貴重な柳家喬太郎自身の証言としての同時代史料となるだろう。
 「古典落語をやるときには,古典落語をやるんだからこうできゃいけねえ,みたいなものがお客さんにもあるし,僕らの側にもあったりするわけですよね。(略)その反面,現代をしゃべらなきゃいけないみたいな変なプレッシャー,まあ談志師匠的な,「いかに現代と格闘して生きているか」ってことも言わなきゃいけねえのかなって。談志師匠には,僕もかなり影響をうけていますけれど」。ここまで,素直に談志に影響を受けた,とカミングアウトした喬太郎を知らない。「伝統を現代に」や「江戸の風」の談志のセリフを屈託なく口にする。
 そうなのだ。意識しないはずがない。「落語とは?」に,いちいち答えを出してきたのが,談志である。同じ時代に同じ生業の落語家,ましてトップランナーの一人である喬太郎が影響を受けていないはずがない。
 喬太郎は,「落語という芸能」について語る。「落語って,お客さんが熱狂して割れっかえるように入る芸能ではないんだと思うんですね。寄席も360日以上やっているところなので,そんなに毎日入るわけはないですよね」。本人がホールを埋め尽くさせる力量を見せつける一方で,落語を冷めた芸能でもある,と言う。
 つまり,落語という話の構造やオチやサゲを古典の枠の中でどう現代性を担保させるかを格闘し,さらに落語家そのものが身についた技芸という箱であるとして,その箱を通すことでどんな噺も面白くできるのが落語家だとすれば,落語家そのものを見に来るのだと喝破した立川談志。一方,昭和38年生まれで,貧乏と縁なく育ち,テレビそのものが自我の発育と同時にあった,まさにテレビに育てられた最初の世代の子である柳家喬太郎は,「落語という芸能」を愛しながらも,決して,落語の世界の人,落語界の人として自分を置いていない。だから,「落語という芸能」と客観視できる。おそらく,座布団の上の自身を俯瞰して見られるだけではなく,柳家喬太郎そのものも分離させて,客席と舞台上との間の空気を推し量れる特殊能力を持っているのだ。
 剛腕・談春,変幻自在のキング・喬太郎,鉄板の志の輔,軽さの開拓者・昇太,正統派・三三,歌の巧さとスケールの大きさ・市馬,洒脱の兼好,巧者・一の輔,楽しくワクワクな白酒。いま,トップランカーはベラボウな強者揃いの中,孤高の存在なのが喬太郎である。そのヒントは,兼好師がいう「現代の落語家さんにはない”熱くない狂気” がありますね」だ。才能,技術,知識はあったろう。だが,留めようのない狂気と必死にバランスを取っている喬太郎。どうぞ,ナマでご覧あれ。


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