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パトロンの「思想」─ 愛・知・業 ─

※この文章は、サポーター募集の過程で書かれたものです。
※詳しくはクラウドファンディングのページを御覧ください。
https://community.camp-fire.jp/projects/view/253502
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■知の場所、知の周縁

 かつて、大学という場所には、自由でおおらかな時間が流れていて、不要不急の知や文化の創造の土壌がありました。しかし現在、業績と競争、書類仕事と教育市場にひしひしと覆われつつあります。僕も、大学講師や研究員をしつつ大学アカデミズムの端の端にいた人間としてそれを感じ、そしてその場所を離れました。

 少子高齢化という止められない流れのなかで、大学が研究の場よりも教育と競争の場として変わりつつある現状においては仕方ありません。そしてだからこそ、大学の外側で研究や執筆をしていこうという人々は、これからの時代、確実に増えていくと思います。

 僕もそうして大学を離れた人間の一人ですが、僕を含めた多くの人間はどのように生きていくのでしょうか。大学や組織という制度のなかで生まれる「知」や「文化」は社会にとって重要な役割を果たしていますが、その外側にある豊穣な土壌が制度を支え、あるいは辺境の思想・文化が時に歴史に残ったりします。

■パトロンの思想

 歴史上、芸術家や学者たちの生活の背後には、彼らを支えるパトロンがいました。現代では、クラウドファンディングがそのような役割を果たそうとしていますが、その多くは「支援」に対する「リターン(対価)」を持つ「交換の原理」で作動しています。しかし、歴史上のパトロンの多くは、「交換」という市場の原理とは異なるモチベーションで支援を行っていたように思います。

 彼らは何らかのリターンを求めて経済的支援を行っていたのではなく、それぞれに様々な理由から支援をしていたのではないでしょうか。僕は仮にその理由を3つのモデルに分けて考えてみました。


(1)ゴッホ─テオ:モデル(愛)

 もっとも有名なパトロンと芸術家の関係、それはゴッホと弟テオではないでしょうか。ゴッホは生前には1枚の絵しか売れなかったと言われていますが、その活動を支えていたのは弟のテオでした。テオは、売れないゴッホの才能を一人で信じ、この才能を死なせてはいけないと思った。ある作品なり人物の価値が、その人の人生という100年の期間に評価されるとは限らない。テオは兄ゴッホの才能と人間を「愛」し、その価値を信じ、パトロンになることで、いわばその価値の評価を延長し、価値に参加したのだと思います。
 「ゴッホ・モデル」に近いのは、思想家のマルクスとその支援者エンゲルスの関係かもしれません。エンゲルスはマルクスの思想を高く評価し、彼が本を執筆すべきだと思って支援し、『資本論』が書かれ、結果として(その功罪はさておき)彼の死後も世界中を変革させる価値を生んだのです。

(2)アリストテレス─アレグザンダー大王:モデル(知)
 また、古代ギリシアの哲学者たちは皆労働しませんでしたが、有名な関係でいえば、アリストテレスとアレグザンダー大王でしょうか。アリストテレスは若きアレグザンダー大王の家庭教師を務めました。アレグザンダーは帝国を統べる王になる人物です。そのような王が、いかなる知識を持ち、いかなる思考ができるか、というのは、国家全体の成否を占うほどの重要事です。アリストテレスの知は、単純な貨幣価値には変えられないほどの莫大なリバレッジを持ったでしょう。
 おそらく、このモデルは中国の皇帝と賢者の関係に近いかと思います。一国の統治者が「知」を得るために払う対価は、「交換」の原理にも近くて純粋なパトロンとは言えませんが、その価値が計り知れないことから、そういう関係は長く存在したのだと思います。

(3)利休─秀吉:モデル(業)
 最後に考えたいのは、千利休を支援した豊臣秀吉です。一見すると「知」を提供した王と賢者のモデルのように思えますが、ここにはもう少し内面的な感情が本質的な役割を果たしているように思えます。秀吉は戦国の武将として、日々戦いに明け暮れ、人を殺しています。おそらくは自分に深い「業」を感じていたでしょう。そのとき、利休の茶室に呼ばれてお茶を飲む。その俗世から隔絶した空間と、そこでの会話には、まるで憑き物を落とすような救いがあったのではないでしょうか。秀吉は、時に悪にも手を染めながらも、こうして純粋な芸術を支援することで、自分にも善い心があると自分を信じることができのではないでしょうか。
 この関係は、もはや宗教的な関係にも近く、まさにこうした関係性を作っているのが、宗教における寄付やお布施の仕組みです。キリスト教にしろ、仏教にしろ、俗世に生きる人間は、修行を収めて救いをもたらす宗教者を支援することで、自らの業を肩から下ろしているのです。

 もちろん僕は、ゴッホやマルクスのように天才でもなく、アリストテレスや中国の賢者のような叡智を持っているわけでもなく、利休や宗教者のように純粋でもありません。僕は「交換の原理」の周縁にある、寄付やパトロンといった仕組みが、いったいなぜ歴史上常に存続しているのか、いったい人間はなぜ他者を支援するのだろうか、という思想を理解してみたかったのです。

■現代のマイクロパトロン

 実は僕も、余裕さえあれば何か支援したいなと思っている在野の研究者や芸術家などがいます。彼らのことを想像したとき、僕が支援するなら、何か対価が欲しいというより、ただ彼らが生きて、執筆や制作を続けてくれたらいいなと思ったので、僕も理想としては、そのようなモデルを考えてみました。

 市場に即効的に直結する価値でもなく、制度の内部で生産される体系的な価値でもなく、その中間領域で、時代の風を感じながら、しかしあくまで孤絶した思索と創造を求める。そんな生き方のひとつの実験として、現代のマイクロパトロンが機能する日が来れば面白いなと思います。

 願わくば、こうしたモデルが成立するならば、僕以外のそういう志で生きる人々も利用できる新しい仕組みにもなればと思っています。




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